第3話:戦後の金儲け情報入手

文字数 2,834文字

 終戦となって、日本中が、食糧難の時代も池辺家では、食べるものに困らなかった。それどころか、都会から金小判、宝石、高級着物、美術品を持参し米と交換して欲しいと言う人達が大挙してやってきた。東京から1時間以内で来られる立地の良さもあり、お宝を手に入れることさえできた。朝鮮特需の時、使わなくなった織機が、売れると聞くと八王子、相模原の方から織機を安値で買った。

 そして織機を自分の運送会社のトラックで買いたいと言う会社の工場へ運び込み、「濡れ手で粟」の大儲けをした。その他にもセメントの運送業務も請負い、朝鮮特需で、さらに金を儲けた。しかし、池辺作一の女癖の悪さは、変わらず、運送会社の若い子に手を出して1952年に妊娠させた。その娘に、依願退職の名目で辞めさせ、月々、5万円の養育費を出すことにした。

 その娘の名は、北川米子、東北出身のぽっちゃりとした娘で、当時20歳だった。1953年3月に、北川米子は、橫浜市内の産婦人科病院で男の子を産んで、名前の北川天一と名付けた。その後、橫浜市港北区のアパートに住んで、小机の商店街のやさしい商店主の店で、子供連れで店番をして働いた。1955年「昭和30年」には、神武景気となり、池辺作一が電機屋も始めた。

 この好景気によって日本経済は戦前の最高水準を上回るにまで回復し、1956年「昭和31年」の経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記され、戦後復興の完了が宣言された。また、好景気の影響により、耐久消費財ブームが発生、三種の神器「冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ」が出現した。そして、橫浜でもモダンな生活に憧れ、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが売れだした。

 その後、1年、なべ底景気となったが、また、日本の景気が良くなってきた。そして、この頃には、一般庶民に、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが普及し始めて、池辺作一の店でも展示品まで売れるほど、電化製品が飛ぶように売れた。それに伴い、池辺商店でも電化製品に加え化粧品、衣料品など、近所の人の要望の多い商品の品揃えを増やした。そして農機具を買い、農業の効率化も図った。

 戦後、池辺作一は、自民党の佐藤代議士と仲良くなり、橫浜市や国の土地開発計画などの情報をもらっていた。しかし、自民党パーティー券を定期的に買わされた。できるだけパーティに出席し、ある時、パーティー後の二次会に呼ばれた。その時、佐藤代議士が国鉄の新幹線計画の話が出て、最初に、東京と大阪、次に、大阪から広島、東京から仙台、東京から新潟に新幹線を通すことになるかもと語った。

 その時、池辺作一が、佐藤代議士に、東海道新幹線が開通したとき、東京駅の次の駅は、どこになるのですかと聞くと、そんな遠くない所、25キロ位の所には必要だろうと言い、橫浜市内にできるかも知れないと笑いながら言った。もちろん東京、大阪の最短距離で東海道を沿って走るだろうと言った。橫浜に駅ができる時には、知らせて欲しいと作一が耳打ちし10万円入りの封筒を渡した。

 翌年の1957年4月に、佐藤代議士の秘書が、池辺作一あての封筒を送ってきた。それには、橫浜の地図と、地図に、鉛筆で線が引いてあった。それによると、東京駅から東横線の菊名駅の近くを通り、茅ヶ崎、平塚、寒川の通り、小田原へ向かっていた。そして不思議なことに、菊名駅と小机の間に小さな丸が書いてあった。そこは、田んぼがある、農村地帯だった。


 それを見て、池辺作一が、友人の農協の池谷組合長に菊名と小机の中間地点の田んぼを買いたいと言った。すると、なんで、こんな所を買うのかと不思議そうに聞いた。そして、あそこは、篠原池があって、しばしば幽霊が出るという噂で、タクシーの運転手も行きたがらない、へんぴな場所だぞと語った。と言う事は、安く手に入るのかというと、確かに単価は安いと言い、調べようかと聞くとお願いと言った。

 5月8日に池谷組合長から電話が入り、飲みながら話そうと言われ、その晩20時過ぎに、歩いて池谷家を訪問した。すると、新横浜で、大きな田んぼの持ち主が、子供が東京に出て、老夫婦で田んぼをしているが体がきついので値段さえ折り合えれば、売っても良いと聞いたと知らせてくれた。それによると、広さ、900坪、3反、30アールで、現金支払いなら100万円の条件と言った。

 それを聞き、現金支払いで買うと言った。5月12日、田んぼの持ち主の片倉さんと池谷組合長と3人で面会して、売買が成立し、契約書を3部作り、3人のハンコをおした。次に、片倉さんに、土地の権利書を持参してくれた日に、銀行から、送金すると伝え、5月15日、権利書をもらい、午前中に100万円を片倉さんの指定された口座番号に入金し、確認してもらった。

 北川は、池辺作一が、しっかり稼いでいるのを聞いて、子供の教育費がかかるから、全部で、月10万円が欲しいと話した。ずいぶん、高額だねと池辺が言うと、あんた、うまくやって、もうけてるらしいねと言い、隠し子がいる事がばれてもかまわないのと大きな声で言うと、わかったよ、でも月10万円以上は、出せないぞと、怒った様子で言い放った。それを聞き、北川が、うなずいた。

 北川は、貧乏生活が長いのでアパートの家賃2万円と食料品は、売れ残りや山菜、タケノコ、市場に自転車で直接買いに行き、切り詰めた生活をしていた。また、働いてる商店のおばさんが、子供のためにと、売れ残りのコロッケ、メンチ、野菜、牛乳などを無料で、ゆずってくれた。また、着るものも、その家の2歳上の男の子の洋服、下着も無料でゆずってくれたので助かった。

 1959年、ドイツのミュンヘンで行われた第55回国際オリンピック委員会「IOC]総会で立候補した都市は、ブリュッセル、デトロイト、東京、ウィーンで、投票の結果は東京34、デトロイト10、ウィーン9、ブリュッセル5で、東京と決定した。以前、1940年「昭和15」の第12回大会が決定していたが、日中の間に不幸な戦争が起こり、1938年7月15日大会の返上を決定した。

 その後、第二次世界大戦とともに、オリンピックも中断を余儀なくされ、戦後復活した1948年のロンドン大会も日本の参加は認められず、1952年ヘルシンキ大会に招かれるまで参加できなかった。戦後いち早くスポーツ再建に努めた日本スポーツ界は、東京大会の夢をもう一度と国際スポーツへの活動の活発化を図り、1958年、東京で第3回アジア競技大会を戦後初めての国際総合競技会として開催した。

 そんな活動を積み重ね、日本の国会も誘致のための決議をするなど、国民的世論として大会待望の空気が強まった。ミュンヘンのIOC総会には、安井誠一郎東京都知事が開催立候補都市の代表として出席、また日本オリンピック委員会委員の平沢和重さんが日本の小学校の教科書を手に、日本のオリンピック運動が根強いものであるとの演説を行い、招致に成功した。
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