第7話:日本製品の海外生産と天一の結婚

文字数 2,421文字

 1987年2月22日にパリのルーブル宮殿で開催された先進7カ国財務大臣・中央銀行総裁会議G7で1985年9月に決められたプラザ合意によって始まったドル安に歯止めをかけるための合意だった。しかし、各国の協調が十分ではなかったため、ドルの下落を止めることはできなかった。ちなみにG7とは、G5にイタリアとカナダの2ケ国が加わりG7となった。
 
1987年は、金利は低く、土地バブルがおき始めた。こんな時は、商社株が面白と、関根先輩が北川天一に連絡してきた。北川が具体的にはと、聞くと、三菱商事、三井物産、住友商事、株価チャートを見ると三井物産が、最も面白いかも知れないと話してくれた。それを聞いた時点で、北川は、100万円を持っていて、母に、いくらかしてもらえるかと聞くと500万円まで言われ、貸してもらった。

 そして、1987年1月に520円で三井物産株を1万株を買い、残金が80万円となった。そこで、その年の夏のボーナスを足して100万円を母に返した。1987年4月、関根先輩が、上昇した日本電気株、26000円で全株を売った。株数は、3回の分割で1200株になり税引き後利益が2750万円となった。1987年11月、三井物産を530円で4万株、2120万円で購入したと連絡が入った。

 やがて1988年になると、関根先輩の言う通り、日本電気株が徐々に上昇し、だんだんと上げ足を早めていった。その後、翌1988年10月には、北川天一が、1974年11月に購入した富士通株が上昇し19000円で全株売った。富士通株は、6回の分割をし700株が1130株に増えていたので税引き後利益が1900万円となった。

 これで、母に借りた金を替えそうとした時、母が、もっと資産を増やして、返してくれれば良いと言ってくれた。そして、1989年となり、三井物産株は、今年も上昇を続けた。そこで、関根先輩に、休日面会して、三井物産の売値を教えて欲しいと聞くと、下げ初めだろうと言われ、注意深く、株価を見ていろと言われた。

 そして1990年1月4日、大発会の朝、関根さんから電話で、成行売りの指示が出た。言う通り、三井物産株を成り行きで全株を売ると1410円で売れて、税引き後利益1300万円となった。そして資産合計が3200万円となった。1990年3月に大蔵省銀行局長、土田正顕から通達された、いわゆる「総量規制」となり、不動産への融資ができなった。

 さらに、日本銀行総裁三重野康による金融引き締めは急激なものとなり、信用収縮が一気に進んだ。景気についても、景気動向指数をみると、1990年10月をピークに低下傾向となた。地価は、1991年夏頃「東京、大阪の大都市圏では1990年秋頃から、地方圏では1992年、公示価格では、さらに1年遅れの1993年頃、路線価も1992年、初頭をピークに下落していった。

 その頃、横浜信用金庫で、仲良くなった、20歳の佐藤清実さんとデートを重ねて、楽しい時間を過ごしていた。佐藤清実さんは、両親が、交通事故で亡くなり、10歳の頃から、叔母の家で育ち、早く、家を出たいと願っていた。そのため、1990年9月16日、日曜日、橫浜の小さな結婚式場で身内と会社の友達の合計14人で、質素な結婚式を挙げ、新婚旅行は、伊東と熱海温泉に2泊3日で出かけた。

 そして北川天一は、母の住む、橫浜市営団地の近くに住もうと考えていて、橫浜市に申請を出した。その後、秋を待ち、10月、2DKのマンション作りの市営住宅に入った。そこは、母の住む2DKの住宅の2つ先の棟で、徒歩5分と、近い場所にあった。北川天一の母の北川米子は、何回か、佐藤清実と会って、彼女の生い立ちを聞いて、気に入ってくれ、頻繁に行き来して生活を続けた。

 1990年11月5日、天一の奥さんの清実さんが体調が悪いと言い、近くの産婦人科に行くと、妊娠とわかり、出産予定日が1991年5月8日と言われた。その後も清実さんは、仕事を続けてた。やがて、1991年があけた。すると、天一と清実さんと、母の米子さんで、近くの神社に初詣でに行き、元気な赤ちゃんの誕生と株投資の成功を祈願して来た。

 1991年も冬が終わり、桜が咲く頃には、北川清実さんのお腹が大きくなり、橫浜信用金庫に通っていたが、1991年4月29日に出産休暇に入った。その後、母の米子さんが、北川天一の家に来て、掃除、炊事、洗濯をやってくれた。そして、5月7日に近くの産婦人科病院に行き、翌朝、元気な男の子を出産し、北川初男と名付けた。そして、彼は、エクボのある可愛い子だった。

 孫の誕生に、母の北川米子さんも、大喜びしてくれ、早速赤飯を炊いて、祝ってくれた。そして、母が、近くの商店で仕事をしていたので、時間を見つて、ちょくちょく、清実さんと子供の顔を見に来ていた。北川天一も、定時に帰ってきて、炊事、洗濯、掃除をしていた。やがて、梅雨となり、空けると、厳しい夏の到来となった。部屋の冷房を効かせて、奥さんと乳飲み子に良い環境をと気を使っていた。

 9月になると、残暑が残るものの少しずつ涼しくなり、夕方、乳母車に乗せて、天一と母と奥さんの3人で、橫浜市営団地の近くの公園を散歩した。たまに、通りの喫茶店で、お茶を飲んで、ケーキを食べたが、奥さんの清実さんは、ケーキ2つをたいらげた。そして、なんで、こんなに、お腹が空くのかしらと笑って言うと、母が、天一を産んだときも乳をやるから、直ぐお腹が空いて困ったと言った。

 そして1991年、年末になっても世の中では、不景気風が吹いて、土地の値段が急落して、バブル長者が一転して、借金に苦しんで、金策に走り回るようになっていた。やがて1992年があけた。1992年の春、著名なエコノミストのTK氏は「日経公社債情報」で「このままでは戦後最大の不況となる」と悲観的な経済見通しを公表した。
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