第2話:第2次世界大戦からB29の空爆、日本の敗戦

文字数 3,344文字

 その後、1941年12月8日早朝、日本海軍の特別攻撃隊が真珠湾を奇襲、多大な被害をあたえた。日米両国は4月から日米交渉を続けていたが、東条英機内閣は11月末までの交渉が不調であったことを受け、12月1日の御前会議で開戦を決定た。しかし、戦力的に不利な日本海軍が勝利を占めるには敵の不意を突く必要があるとの判断に立ち、緒戦の勝利によって早期の講和に持ち込みたいという考えだった。

 そのため攻撃は宣戦布告と同時に行うと予定された。実際には攻撃開始より1時間後に宣戦布告が届いたため、メリカ側はこれを奇襲と受け取った。アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトは日本のだまし討ちであるとして非難し国民に「パールハーバーを忘れるな!」と呼びかけ、戦争意欲を高めた。なお、真珠湾攻撃の日付はハワイ時間では12月7日にあたっている。

 日本海軍の連合艦隊機動部隊は赤城以下6隻の空母から、第一陣が戦闘機「ゼロ戦」43機、爆撃機51機、魚雷攻撃機89機で行われ、真珠湾などに停泊中のアメリカ海軍の艦船を破壊し、約2千人の死者をさした。第2次攻撃隊も発進したが、敵の反撃が想定されたため引き返し、機動部隊の南雲忠一中将の指揮でそれ以上の深追いをせず攻撃を切り上げた。

しかし、後年、わかった事だが、真珠湾攻撃に参加した隊員たちの本音は、実は違っていた。「真珠湾攻撃の計画を聞かされたときは、私なんか作戦の中枢にいるわけではありませんから、ああ、いよいよやるのか、ずいぶん訓練やったからな、とそれだけでした」と、軍艦赤城の軍医が、静かに語り始めた。真珠湾攻撃60年を目前に控えた2001年初夏のことである。

 その人は現在、病院経営者となった。空母「赤城」乗組の士官で九九式艦上爆撃機「九九艦爆、2人乗りの急降下爆撃機」に搭乗、真珠湾攻撃に参加した。「しかし、私はね、攻撃の前の晩寝るまで、『引返セ』の命令があると思っていました。日米交渉がうまくいったら引き返すこともあり得ると聞かされていたし、こんな簡単にアメリカ相手の戦争を始めて良いのかと思っていた」。

 当時、アメリカの空母エンタープライズは外洋におり戦闘には間に合わなかったが生き残った。この奇襲成功は国民の喜ばせたとして歓迎され、日本中が勝利に沸いた。さらに翌1942年春まで、香港、マレー、マニラ、シンガポール占領という勝利が続き、戦争の行方は楽観視されたが、東南アジアから太平洋におよぶ広大な戦線を維持するための兵力や石油を始めとする物資の補給に次第に苦しむこととなる。

 日本の宣戦布告を受け、アメリカもただちに宣戦布告、日米間の太平洋戦争「当時の日本は大東亜戦争と言った」が開始されただけでなく、1941年12月11日はドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告、アメリカも両国に宣戦したので、これによりアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦した。日本ではアメリカ・イギリスという欧米工業化の最高水準にある国家と対等な戦争に突入した。

 しかも緒戦の勝利を占めたことで、民族的自信や自尊の気風が強まった。しかし、第二次世界大戦の経緯から見れば、真珠湾奇襲の意味は、アメリカの第二次世界大戦参戦「しかも感情的な日本の奇襲に対する反感を持って」が実現した、という点にあった。ルーズヴェルト大統領は、真珠湾奇襲の4ヶ月前の8月、すでにチャーチルとの間に大西洋憲章を出し、ファシズムとの戦いという戦争目的で合意していた。

 しかし、国内の孤立主義に固執する人々や依然としてドイツよりもソ連を危険視する保守派も多く、参戦には踏み切れないでいた。ひそかにルーズヴェルトとその閣僚は国民を納得させる参戦の機会を探していた。4月からの日米交渉も、日本に譲歩する考えはなく、追い込んで戦争に持ち込みたいのが本音であった。日本軍の真珠湾攻撃はこのようにアメリカに参戦の絶好の口実をあたえたことになる。

 その後、1942年、日本はガダルカナル島に飛行場を建設してラバウル以南の前進航空基地を建設し、ソロモン諸島の制空権を拡張しようと考えた。このガダルカナル島基地建設は軍令部作戦課「大本営海軍部」から参謀本部作戦課「大本営陸軍部」に文書で通知されたが、陸軍では作戦課同士でのやり取りにとどまり、陸軍内部に伝達が行われなかった。

 大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、ガダルカナル島において戦闘能力のある人員は、設営隊と護衛の海軍陸戦隊「第18警備隊基幹」を合わせても600名足らずであった。アメリカ軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了している。なおこれに先立つMO作戦時に、近接するツラギ島には水上機基地が設けられていた。

 しかし日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも1942年7月2日には対日反攻作戦となり、当時飛行場建設が行われていたガダルカナル島を攻略した。7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦が進められた。8月7日午前4時、アメリカ海兵隊第1海兵師団を主力とし、オーストラリア軍の支援を受けた10900名の海兵隊員が、味方の援護の下でガダルカナル島に上陸を開始した。

 同時にツラギ島方面にも4個大隊1500名が上陸し壮絶な玉砕戦が行われた。また、これとは別に6705名が海上に師団予備として残された。ガダルカナル島の日本軍は警備の第14設営隊以外は就寝中で、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。上陸当初、最も敵に近いルンガ川の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していた。

 しかし、各隊の陣地は防空壕以外に陣地整備されているものは何も無い状況だった。そのため、敵兵力の把握もできずルンガ川東岸の第11設営隊、1350名は敗れ、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。この上陸戦において、アメリカ軍は重装備で、弾薬、ガソリン、燃料、使用可能なトラック35台を含む自動車と電波探知機2台、食料多数を獲得。

 一方、第13設営隊隊長岡村徳長少佐は指揮下の1200人の設営隊員を敵上陸地点の反対方向のルンガ川西岸地区に移動させ、ルンガ川橋梁を破壊してルンガ川西岸で連合軍部隊を迎え撃つ姿勢を見せた。同日夕方、どうにか数10名の部下を従えた第11設営隊隊長門大佐が岡村部隊と合流して善後策を協議し、ルンガより西方約4キロメートルにあるマタニカウ川を第一線陣地とした。

 そして、門前隊、岡村隊、第18警備隊を合わせて臨時のガダルカナル島守備隊を編成することとなった。8日午前零時、門前大佐が中隊長としてクルツ岬に向けて中隊本部を後退させ、岡村隊と警備隊をマタニカウ川正面に展開を終えたのは8日午前4時30分とされる。この際に同隊がクルツ岬付近のジャングルに設営された海軍本部に収容できた食料は、わずか7日分であった。

 その後、第一次ソロモン海戦、第二ソロモン海戦と続き、陸上でも激しい戦いが行われたが、日本軍の失敗の連続で1942年中に、ガダルカナルは、アメリカ軍の手に落ちた。1943年1月にガダルカナルは陥落した。その後1944年11月には、サイパン島が占領され、サイパン基地から発進したB29による本土空襲が開始された。軍需工場だけでなく民間施設も空襲を受けた。

 終戦までに約58万3千人の死者、行方不明者を出した。これは、広島の原爆投下で死亡者数が昭和20年12月末までに約14万人、長崎の原爆投下当時の死亡者数、約7.4万人が亡くなり、合計、21万4千人と言われている。空襲と2つの原爆投下で行方不明者と死者の総合計、約80万人の日本人が命を落とした。戦場での日本兵の死者が212万人と292万人が亡くなった。

 この第二次大戦での死者数337万人と、現在の日本の大都市の人口を比較してみると、橫浜市の人口、375万人、大阪市274万人。日本第三の大都市、大阪の人口が、一気に亡くなった事になる。これを見ても、太平洋戦争での戦死者、原爆での死者数が、いかに大きいかがわかる。また、B29による日本本土空襲の被害が、いかに大きいかも想像できる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み