第5話:いざなぎ景気と北川天一が橫浜国大へ

文字数 2,802文字

 1964年、経済協力開発機構「OECD」への加盟が認められる。経済協力開発機構「OECD」は、経済成長の促進、発展途上国への援助などを目的とする先進国の政策調整のための国際機関で、先進国クラブともよばれる。これにより、日本は資本の自由化を義務づけられた。資本の自由化とは、外国からの投資を制限しないということ。

 しかし、時間が、かかり。1976年、農林・水産・皮革・鉱業の4業種を除いて、日本でも資本の自由化が完了した。1965年からの いざなぎ景気 の特色は、輸出主導型の経済成長である。設備投資の進んだ重化学工業の分野で国際競争力が強化され、鉄鋼・電気製品の輸出が増大したことにより、国際収支の天井が解消された。

 経常収支は常に黒字となり、政府も国債を発行して公共投資の拡大をはかる中で、いざなぎ景気は57ヵ月という戦後最長の大型景気となった。国民生活では、「マイカー、カラーTV、クーラー」 の3Cブームが起き、普及していった。こうして、1967年から段階的に資本の自由化を進め、開放経済体制に入っていった。一方、北川米子の子、北川天一は1966年、近くの中学に入学した。

 中学に入ると、北川天一は、母の米子から世の中に出たら頭を使って、稼ぐために勉強しなさいと言われ、忠実に、その教え通り、夜遅くまで勉強した。計算が早くて、記憶力抜群で、母は、天一が、読みたい本を聞いては、近くの橫浜市立図書館に行って、借りて読ませた。また、覚えるためにラジオ・カセットレコーダーを買い与えると、FEN放送を聞いて英語の勉強を始めた。

 1967年、中学2年生になると、近所の教会で毎週土曜の午後、無料英語教室をしてることを知り、北川天一は、毎週でかけて英会話の勉強をして生の英語を身につけた。そして、その英会話教室で橫浜国立大学2年生の関根辰男と親しくなった。彼も福島出身で苦学の末、現在、橫浜国立大学の学生寮に入り家庭教師のアルバイトしながら、自分の稼ぎで生活費、学費を払ってると聞いて感銘を受けた。

 その後、関根辰男が、北川の家に遊びに来るようになり、無料で勉強を見てくれるようになった。そうしているうちに、北川天一は、自分も将来、橫浜国大に入って金を稼ぎたいと思うようになった。やがて中学3年生になり、橫浜の名門、翠嵐高校を受験する決意を固めて、より一層、勉強を続けた。中学ではクラストップで学年5番で、もう一息で、翠嵐高校に合格できると言われ1969年となった。

 そして1月末に受験の手続きを取り受験して見事合格した。その頃、関根先輩が、日本はこれからも好景気が続くと言い、20歳になり、N証券で株式投資口座を開いた。その後、25万円を入金した。来たがの母の米子も関根先輩を気に入り、一緒に夕食を取って、北川天一は、関根の話す世界情勢の話や世界の文学の話を聞き入っていた。やがて天一も橫浜国大経済学部に入ろうと決心した。

 その後、翠嵐高校でも北川天一は、勉強を続け、クラスベスト10に入り、ベスト3を目指していたが、橫浜でもトップの高校で、なかなか思い通りに成績が上がらなくて、悩んでいた。そんな時、関根辰男が、天一に、相対値ばかり気にするのではなく、もっと本質的なところ絶対値を見ろといわれた。つまり世の中で通用する人間というのは、戦いに勝つ人間だけだ。

 そのために具体的な目標を立てて、それに邁進していれば、おのずと成績は上がるはずだと気合いを入れ得られて奮起した。すると高校3年になると、クラス3位になり、橫浜国大が射程距離に入った。その後の高校の共通テストで、橫浜国大の合格確率が80%に達して、大喜びした。1971年11月に関根先輩は、日本電気株を1040円で1千株104万円で買い、残金が約16万円となった。

 1967年、中学2年生になると、近所の教会で毎週土曜の午後、無料英語教室をしてることを知り、北川天一は、毎週でかけて英会話の勉強をして生の英語を身につけた。そして、その英会話教室で橫浜国立大学2年生の関根辰男と親しくなった。彼も福島出身で苦学の末、現在、橫浜国立大学の学生寮に入り家庭教師のアルバイトしながら、自分の稼ぎで生活費、学費を払ってると聞いて感銘を受けた。

 その後、関根辰男が、北川の家に遊びに来るようになり、無料で勉強を見てくれるようになった。そうしているうちに、北川天一は、自分も将来、橫浜国大に入って金を稼ぎたいと思うようになった。やがて中学3年生になり、橫浜の名門、翠嵐高校を受験する決意を固めて、より一層、勉強を続けた。中学ではクラストップで学年5番で、もう一息で、翠嵐高校に合格できると言われ1969年となった。

 そして1月末に受験の手続きを取り受験して見事合格した。その頃、関根先輩が、日本はこれからも好景気が続くと言い、20歳になり、N証券で株式投資口座を開いた。その後、25万円を入金した。来たがの母の米子も関根先輩を気に入り、一緒に夕食を取って、北川天一は、関根の話す世界情勢の話や世界の文学の話を聞き入っていた。やがて天一も橫浜国大経済学部に入ろうと決心した。

 その後、翠嵐高校でも北川天一は、勉強を続け、クラスベスト10に入り、ベスト3を目指していたが、橫浜でもトップの高校で、なかなか思い通りに成績が上がらなくて、悩んでいた。そんな時、関根辰男が、天一に、相対値ばかり気にするのではなく、もっと本質的なところ絶対値を見ろといわれた。つまり世の中で通用する人間というのは、戦いに勝つ人間だけだ。

 そのために具体的な目標を立てて、それに邁進していれば、おのずと成績は上がるはずだと気合いを入れ得られて奮起した。すると高校3年になると、クラス3位になり、橫浜国大が射程距離に入った。その後の高校の共通テストで、橫浜国大の合格確率が80%に達して、大喜びした。1971年11月に関根先輩は、日本電気株を1040円で1千株104万円で買い、残金が約16万円となった。

 そして1972年、北川天一は、橫浜国大経済学部を受験して合格した。合格祝いが何がよいと、母が聞くので、20歳になったら日本株で稼ぎたいから100万円貸して欲しいと言った。それを聞いて驚いて、大丈夫と聞いた。銭がなければ、他人は相手にしてくれないよと、笑いながら言った。それに対し、母が、わかりましたと答えた。その時、関根先輩は社会人2年生だった。

 大学に入ってからは、土日に家庭教師のアルバイトを始めて、自転車に乗って中学生、高校生の家を回って、勉強を教えて回った。5月の連休も夏休みも返上して稼いでいた。家に帰ってくると食事して、風呂に入り、直ぐ寝てしまう日々が続いた。一方、関根さんは、橫浜の地元大手銀行に勤めて外勤する日々が続いた。今迄みたいに、北側の家を訪問する事はなくなった。
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