第22話:初男が留学終了し帰国

文字数 2,737文字

 その後、飲み物とパンなどを買って、バス停に向かい、そうしているうちに11時を過ぎた。そこで、近くのシアトル駅行きのバス停に行き、11時20分のバスに乗り、12時前にシアトル駅近くのの停留所に到着した。昼食食べようと、駅近くのカフェに入って、ランチセットと珈琲を飲んで、12時半にシアトル・キングストリート駅に入り、チケットを買い、海側の席を頼んだ。

 しばらく待っていると14時になり、列車が入線して、海側の席に座った。その後、海岸線を見ながら、買ってきたパンとコーラを飲みながら、アメリカとカナダの国境を越えて、17時を過ぎ、やがてバンクーバ駅に14時20分に到着した。そして、バスで、ホストファミリーの家に15時前に到着した。そして、翌日の晩、日本の父にスカイプ電話をして、旅行の話をした。

 そして、今週が留学の最後の週になった。今週、水曜日、8月31日の午前中に、最終のディスカッションをする予定になっていた。その後、昼食を取りながら4週間の留学の成果、出来事、感想などを1人ずつ、全員が発表する。その話について、最終の討論会をして、終了となる。その後、留学生全員による送別会をして、4週間にわたる、留学が終了する事になっていた。

 この週の月曜日、8月29日、午前中の授業が終わり、昼食を終えた後、同じクラスで仲良くなったドイツ人の男性、ブラウンとフランス人、女性のエマと話をして、8月31日でお別れになるねと言う話になり、ブラウンとエマが、日本に遊びに行きたいと言うので、前もって、連絡してくれれば、歓迎するよと言った。東京、橫浜、鎌倉、京都に興味があるので小旅行もしたいと話した。

 以前、ブラウンに言われた、ショット・アウトしろと言われ、討論とは、決闘、一騎打ち、果たし合いと同じだと言われたことが、頭に残った。その後、討論の時に気合いの入り方を変えた。その事をブラウンが覚えていて、ずいぶん良くなったと言い、以前に比べ、格段の進歩だと誉めた。そして、アメリカ人に押されているばかりのヨーロッパ、日本は、対等に物が言えるように共闘すべきだと話した。

 この意見にフランス人のエマも同感だと笑った。それを聞いていた、留学クラス担当の先生が、苦笑いしながら聞いていた、やがて、留学、最終講義の日、午前中に留学で得た事を説明せよと、担当の先生から指示された。北川初男の順番になり、自分は、この留学で、討論の重要性、個人の主張の大切さを知った。今迄は、強い自己主張は、利己主義に近いと思っていた。

 しかし、多くの人達の主張を戦わせ、仲間たち、団体、企業、地方、国を動かすことこそが本当の意味での民主主義だと理解できたと伝えた。そのため、日本に帰っても、自分が信じる事を強く主張していくつもりですと述べると、大きな拍手が巻き起こった。そして、ブラウンとエマが、かけより、抱き付き固い握手ををかわした。その後も留学生の今後の抱負を次々に述べていき、4週間にわたる研修を終えた。

 その後、さよならパーティーとなり、初男は、ドイツ人のブラウンと、フランス人のエマとメールアドレス、スカイプ名を交わして、自分の国に帰っても、頻繁に連絡を取ろうと約束した。そしてブラウンとエマが日本に来る時は、喜んで、案内したり、サポートをしてあげると約束した。翌日、8月31日、4週間お世話になったホストファミリーの人達とお別れして空港へ向かった。

 空港に10時過ぎに着いて、搭乗手続きをして、ゆっくりと昼食をとって、この4週間の留学の日々を思い出した。ビクトリアのブッチャードガーデンのきれいな庭園と、その規模の大きさ、まさに広大なカナダという印象を強く持った。また、色とりどりの花が咲き誇り、多くの観光客が来ていた。また、ビクトリアまで往復に乗った大型フェリーでの珈琲が美味しかった事も思い出した。

 その後、小旅行したポートランドも自然の美しい町で、食べ物も美味しかった。シアトルも食べ物が美味しいのに驚いた。とかく、アメリカでは、食べ物がまずいからと、日本で聞かされいたので、新鮮な驚きだった。また、スペースニードルの展望台から見たタコマ富士「レーニア山」も文字通り富士山に似た美しい山で、昔、日本人移民が額に汗して必死に働き、垣間見たレーニア山を見て郷愁に駆られた気持ちが良くわかった。

 そんな事を改装していると、成田行きの飛行の搭乗が開始されるとアナウンスを聞き、飛行機に乗り込んだ。その後、ビールを飲むと、急に疲れが出てきて、眠りについた。ずいぶん長い間、寝て、食事を運ばれて、目覚めた。その後も、映画を見ながら、うつらうつらしていた。そして、再び、寝入ってしまった。また、目覚めて、ボーットしていると、
あと1時間ほどで、成田空港に到着しますとの声で起きた。

 少しして、到着し、飛行機を降りて、手続きを終えて、通路を歩いていると、母のお帰りなさいの声で、両親と祖母の顔が見えたとき、うるっと来て、涙が出そうになったが、我慢して笑顔を作った。しかし、母と祖母が涙を見せているのを見ると、たまらず、涙がこぼれ落ちた。すると、母が抱き付いてきて、元気だったと聞くので、首を垂れた。次に、祖母が、肩をたたいて、良く帰って来たと言ってくれた。

 父は、その姿を笑顔で見ていた。荷物を持ってくれ、駐車場に案内してくれ、トランクに荷物を積み込み、成田空港を後にした。17時過ぎとなっていて、千葉から横浜まで、渋滞していて20時近くに、実家に帰ってきた。まず、風呂にするか、食事にするかと母に聞かれ、風呂に入るというと、沸かしてくれた。風呂を出て、テレビを見ていると、全員が風呂から上がり、留学の話を聞かせてくれと父に言われ語り始めた。少しして、妹の佐織が帰って来て、一緒に話を聞いた。 

 まず、一番印象に残ったのは、どこだと聞かれて、ポートランドの川沿いで見た、第二次世界大戦中にアメリカの捕虜収容所に収容された日系人を追悼する公園だと言われた。、以前、テレビで、戦前、アメリカに渡って苦労して田畑を開拓した日本の先人達が、太平洋戦争で敵国人として、アメリカの寒く、砂ぼこりひどい捕虜収容所に収容された様子が目に浮かんだと答えた。

 その話を聞いた祖母が、口を開いて、私の生まれ育った東北の農村でも、日本では食っていけないと、集団で満州や北米に渡った。そこで、必死に働き、やっと自分の農地を手に入れ、これから新天地で生活して行こうと思った矢先、日本軍による真珠湾攻撃が行われ、日本人が敵国人として偏見の目で見られ、せっかく開拓した農地を没収された。
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