第1話:昭和恐慌と大凶作から日中戦争へ

文字数 2,764文字


「谷戸」とは、丘陵大地の雨水や湧水等の浸食による開析谷を指し、三方「両側、後背」に丘陵台地部、樹林地を抱え、湿地、湧水、水路、水田等の農耕地の地形のことです。橫浜では、数多くの谷戸があり、古くから、斜面地の里山と沢の奥の水源と緩斜面の畑、平地の水田に加えて、地形に守られた住居地とが組み合わされた、多くの農家が古くからあった。

 ところが、1960年代の高度成長期以降宅地開発され、多くの「谷戸」が宅地化された。最近の研究では、三分の一の谷戸が宅地化により、消滅したと言われている。その代表的なのが、橫浜市営団地の開発、いわゆるニュータウン開発も、それにがいとうする。関東全体を見回すと、「平成狸合戦ぽんぽこ」で有名になった多摩ニュータウン開発が代表的だ。

 池辺家は横浜市の北西部、勝田と地域の谷戸の下に住み、大きな田んぼと畑をつくって数軒の親戚と共に住んでいた。1910年に池辺家に池辺作一が長男として生まれた。1912年に次男の池辺竜二、1914年に三男の池辺正三、1916年には長女の池辺富子と4人の子供が誕生した。この当時、長男が家を継いで次男、三男は勉強して都会の学校に行くか食べるだけの田畑をもらうしかなかった。

 池辺家では当主の池辺健一が大正時代の船株を買って儲けたため、この地区で20人を超える人を雇ってタクシー会社と運送会社を経営し始めた。しかし池辺作一は女好きで自分の周辺の若い娘に手を出した。その後、お手伝いさんは、手切れ金をもらい家を出た。次男、三男は、少しのお金をもらい都会に出て行った。長女は、お婿さんをもらった。しかし1923年の関東大震災が起き、首都圏は大きな被害に見舞われた。

 その関東大震災の処理するための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し社会全般に金融不安が生じた。1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相が東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しましたと失言した事をきっかけとして金融不安が表面化し中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生。一旦は収束するものの4月に当時の大企業、鈴木商店が倒産した。

 その煽り「あおり」を受けた台湾銀行が休業に追い込まれた事から金融不安が再燃。しかし幸いにも大きな被害がなく済んだ。その後、井上準之助大蔵大臣のデフレ政策と1930年「昭和5年」の豊作による米価下落により農業恐慌は本格化。この年は農村では日本史上初といわれる「豊作飢饉」が生じた。米価下落には朝鮮や台湾からの米流入の影響もあったといわれる

 農村は壊滅的な打撃を受けた。当時、米と繭「まゆ」の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方の収入源を絶たれるありさまだった。翌1931年「昭和6年」には一転して東北地方、北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。しかし橫浜では山にはタケノコ、食べられる山菜、自然薯、小川には、どじょうがいて比較的、食糧事情は良かった。

 不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに都市の失業者が帰農したため東北地方を中心に農家経済は疲弊し飢餓水準の窮乏に陥り貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった。小学校教員の給料不払い問題も起こり日本全体的に食糧不足とひどい不景気でダブルパンチを食らった。

 日本は1931年、現地軍の関東軍が独自行動で満州事変を起こしたのを機に中国への侵略を開始、満州全土を制圧し1932年3月にかいらい政権満州国を建国。これに対し中国政府は国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴。それを受けて国際連盟はリットンを代表とする調査団を派遣。リットン調査団は1932年3月から6月まで現地および日本を調査し、リットン報告書をまとめた。

 報告書は日本の侵略と認定した。ただし満州に対する日本の権益は認め日本軍に対しては満州からの撤退を勧告したが南満州鉄道沿線については除外された。1933年2月、国際連盟総会はリットン調査団報告書を審議、日本の代表松岡洋右は満州国を自主的に独立した国家であると主張したが審議の結果、反対は日本のみ賛成が42カ国で可決された。

 これを受けて日本政府は翌3月、国際連盟脱退を通告した。続いて秋にはドイツが国際連盟を脱退、常任理事国2カ国が相次いで脱退するという事態となり集団安全保障体制は大きく揺らぐこととなった。同時に脱退した二国は全体主義国家としてイギリス・フランス・アメリカとの対立を強め提携に向かう事になる。また穀倉地帯とよばれる地域を中心に小作争議が激化した。

 1933年「昭和8年」以降景気は回復局面に入るが1933年、初頭に昭和三陸津波が起こり東北地方の太平洋沿岸部は甚大な被害をこうむった。また1934年「昭和9年」は記録的な大凶作となって農村経済の苦境はその後も続いた。 農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは1935年「昭和10年」だった。1937年「昭和12年」7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中間が全面戦争に入った。

 すると中国の提訴を受けた国際連盟総会では同年9月28日に中国の都市に対する無差別爆撃に対する23ヶ国諮問委員会の対日非難決議案が全会一致で可決された。1938年「昭和13年」9月30日の理事会では、連盟全体による集団的制裁ではないものの加盟国の個別の判断による規約第16条適用が可能なことが確認され、対日経済制裁が開始された。

 孤立主義の立場からアメリカ合衆国議会での批准に失敗し国際連盟に加盟していなかったアメリカ合衆国は満州事変、当初は中国の提案による連盟の対日経済制裁に対し非協力的であった。しかしその立場は不戦条約および九カ国条約の原則に立つものであり満州国の主権と独立を認めず国際連盟と同調するものであった。

 アメリカ合衆国の孤立主義的な立場が変わるのはフランクリン・ローズベルトがアメリカ合衆国大統領になってから。ローズベルトは大統領に就任して1937年の隔離演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せ日中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を採っていた。しかし1937年7月に盧溝橋事件が発生すると対日経済制裁の可能性について考慮をし始めた。

 そして、1937年10月5日に隔離演説を行い、孤立主義を超克し増長しつつある枢軸諸国への対処を訴えた。日本に対する経済的圧力については、アメリカ国内に依然として孤立主義の声もあり慎重であり、後述の通り長期的で段階的なものであったが、仏印進駐による1941年「昭和16年」7月から8月にかけての対日資産凍結と枢軸国全体に対する石油の全面禁輸措置によりABCD包囲網は完成に至る。
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