第6話:オイルショックとプラザ合意、円高

文字数 2,525文字

 その後、1974年7月に、北川天一は20歳を迎え、直ぐに、近くのN証券で証券投資口座を開き、自分のアルバイトの金20万円と、母から80万円借りて、100万円を入信した。そして、関根先輩が日本電気を買っていたので、自分はライバルの富士通の株を買おうと考えていた。そうして1974年11月に1170円で700株を82万円で買い、残金が18万円となった。

 やがて1975年の夏となり北川天一が関根先輩に会い、自分は、あまりきつい職場でなく安定している金融機関に就職したいと相談し、話し合った結果、橫浜信用金庫に入社することを決意した。そして思いついたら直ぐに橫浜信用金庫に行き、来年4月に入社したいと言うと就職担当者が不思議そうに、もっと大きな銀行をめざさないのかと聞くので、母が病気で激務が難しいと言うとそうかと言った。

 その後、簡単な試験と面接を受けて、北川天一は、家から近い橫浜信用金庫に採用された。そして、ほぼ毎日、定時18時に家に帰ってきた。それでも地元の中小企業や個人の家を訪問して、新しい金融商品を説明したり、ローンの返済状況の管理などの仕事そ忠実にこなしていた。クレーム相談にも乗れるように、先輩社員からケーススタディの勉強を教えてもらった。

 休みは、しっかり取れるので、たまに、横浜中華街に行って、母と食事をしたり、元町を歩いたりしていた。母も42歳と若く、母と言うよりも、お姉さんと聞かれることが多く、母は、内心、喜んでいた。しかし、贅沢はせずに、せっせと貯金をして、堅実に生活していた。1973年、年末から始まった景気後退で落ち込んでいたが、1974年12月頃から下げ止まった。

やがて、1975年春には底入れした様で、北川天一も、安心した。しかし、以前の原油高騰で中小企業でも負債を増やさないように、信用金庫でも指導していた。そうして1975年は、約3%の経済成長となり、1976年は、さらに成長が加速して、成長率が4%を越えて、安定成長となった。1977年から78年の日本経済を特徴づけたのは円相場の急騰だった。

 国際収支の大幅黒字で円高が進み、1978年10月、1ドル=175円59銭と新高値を記録した。それでも国際収支の不均衡は解消されることなく、むしろ黒字は拡大された。1978年の国際収支は206億ドルと史上空前の黒字を計上した。日本製品は以前に比べて国際競争力をつけていた。石油危機以降、企業は積極的に省エネルギー投資を行い、生産設備にマイクロエレクトロニクスを活用した。

 1978年の実質成長率は5.5%、高度成長時代にくらべれば、景気の回復感に乏しかったが、企業収益は大幅に回復した。上半期は前年比27.5%、下半期は9.3%と増益がつづき、公共投資の伸長、堅調な消費動向に支えられて経済全体が着実な回復ぶりを示した。

  1979年 、第2次石油危機が起こる。1978から1979年、イラン革命による原油輸出の中断が原因で、原油価格は、1978年末から1980年にかけて2.4倍に上昇した。欧米諸国では、失業率が10%を超える経済危機に直面した。しかし省資源化の進んでいた日本は、短期間で乗り切れた。変動相場制へ移行し、為替レートが短期間で不安定な乱高下を繰り返した。

 そして先進国が協調して為替レートを管理する事が重要視された。1980年代はじめ日本は対米輸出の急増で世界最大の貿易黒字国となった。経営の合理化や産業構造の転換を終えた日本は国際競争力を強め、欧米諸国に集中豪雨的と称される輸出をし貿易摩擦が深刻化した。1981年にアメリカの大統領に就任したレーガン大統領は、アメリカの経済力と軍事力の強化を図ろうとした。

 それまでのケインズ政策とちがって 「小さな政府」 を主張したレーガンは、政府支出の抑制、大幅な減税、規制緩和などのレーガノミックスと呼ばれる政策を行った。しかし、一方、軍事支出の激増により財政赤字は拡大、アメリカは高金利政策をとりドル高でアメリカの輸出競争力を弱めた。1980年代のアメリカは財政赤字と経常収支の赤字が同時に進行する 「双子の赤字」 に悩まされた。

 そのため、アメリカ国内で保護主義が台頭した。保護主義傾向に危機を感じた先進諸国は、会議を開いた。1985年、ニューヨークのプラザホテルで先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議、が開かれる。G5とは「日・米・英・仏・西独」の5ヵ国である。その会議の内容は、ドル高を是正するため、日本・アメリカ・ドイツの通貨当局がドル売りの協調介入し円高で合意する。いわゆるプラザ合意だ。 
 
 プラザ合意に出席したのは竹下登蔵相。竹下は記者たちに渡米がばれないように成田にゴルフをしに行くといって出かけた。ゴルフプレー中に記者があきらめて帰ったので、急いで成田空港へ行った。そこでは秘書が着替えを持って待っていた。マスコミをだますほど、プラザ合意は秘密裏に行われた。

 その結果、急激な円高ドル安が進行し、1ドル240円台だった為替レートは、1年後には 1ドル120円台まで円高となった。円高を利用した海外直接投資が増大し、資本収支は大幅な赤字となった。この時期、日本企業によるアメリカの企業や不動産の買収が盛んに行われ、日本の直接投資は1999年までは巨額だった。

 急激な円高は日本企業を直撃し、円高によって日本製品の国際競争力は低下したので、輸出主導型で成長してきた日本経済は1986年、円高不況に陥った。企業の中には円高の影響を回避するために、生産拠点を労働力の安い東アジアに移したり、貿易摩擦を回避するために現地生産を進めた。外国で生産した工業製品の逆輸入や相手先ブランドによる供給が増加した。

 これで国内では製造業が衰弱化し産業の空洞化が起きた。エネルギー・原材料に代わり、製品輸入が増大。特にアジアNIESからの安価な製品輸入の増大で日本の貿易構造は大き区変化した。日本政府は、中曽根首相の私的諮問機関の報告書・前川レポートで提唱された内需拡大の方針に沿って、公共投資の拡大、輸入の拡大、貿易黒字の縮小をめざす内需主導型経済への転換を進めた。
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