第8話:ソニー株で投資開始と子供達の成長

文字数 2,452文字

 この見通しがきっかけで株価が急落した。1992年8月、東証に上場されていた株式の時価総額は1989年末の611兆円から269兆円と半分以下となった。バブル崩壊を兆しを知った、関根先輩から電話が入り、バブル崩壊になれば、株を買うチャンスだと言われた。こういう時は、技術力のある先進メーカーが良いと言われ、具体的にはソニーだと教えてくれた。

 ただ、今回は、下げ止まり、上げはじめを買えば良いと言われた。そして、1992年11月17日、早朝、関根先輩の電話で、ソニー株を成り行き買いと言われた。直ぐに3730円で1万株、成り行き買いを入れた。この結果、北川天一の資産は、ほとんどなくなった。しかしチャンスの時に買う方が、良いと関根先輩から言われていたので、自分を信じて買いを入れた。

 そして、12月のボーナスを入れて、資産が約100万円となった。その後、ソニー株は、徐々に上昇してきた。関根先輩も1万株買ったと、後日、知らされた。その後、とにかく急上昇するまで、持ち続けろと関根先輩に、アドバイスされた。この頃には、長男の北川初男は、歩き出して、散歩に行くと、途中で転んで、泣いたり、落ちている、どんぐりを拾ったりしていた。

 その後、1993年となった。しかし、ソニー株の上昇は、依然として続いていたが、上昇の勢いは、あまりなかった。その頃、北川天一の奥さんは、橫浜信用金庫に通勤して、仕事を子供で、大忙しだった。しかし、母の北川米子は、一緒に住みたいとは、言わなかった。孫の北川初男の顔を見に来るのを楽しみに、週に何回も、おかずを買ってきては、一緒に夕食を食べたりした。

 その後、1993年も橫浜信用金庫と子供の面倒を見る生活で、忙しくしていると、春になり、桜が咲き、梅雨に入り、暑い夏、そして、秋から冬、12月も年末になった頃、北川初男が、風邪を引いて、熱を出して、真っ赤な顔となり、小児科へ行くと、風邪でしょうと言われた。その後、心配した、祖母の北川米子が、孫の初男を見るからと言い、商店を数日休んで看病してくれた。

 そのお陰で、1週間足らずで、初男の熱が下がり、元気になった。やがて1994年となり、母の北川米子も60歳となり、商店の手伝いの仕事を辞めると言った。そして、孫の初男が保育園に入るまで、見てやると言ってくれた。その話を聞いて、北川天一、清実さんは、お礼を言って、ボーナスの時に、お小遣いとして、1割を渡すことにした。

 1994年3月に、また、北川清実さんが、登庁が悪いと言い、産婦人科に行くと、妊娠とわかり、出産予定日が1994年9月10日と言われた。そして、8月のお盆休みから産休を取り、母の米子さんが、北川清実さんと長男、初男の面倒を見てくれるようになった。しかし、天一が帰って来ると、夕食を食べて、また来るよと言って、自分の家に帰っていった。

 1994年4月、もうすぐ、3歳になると長男、初男を徒歩15分の保育園に入園させた。その後も、平日、母が電話して、北川清実さんと子供の面倒を見に、よく来てくれて、本当に助かった。そして、北川天一が、母に仕事やめて金あるのかと聞くと、ある、お金持ちの人から、手切れ金をしっかりもらっているから、私は大丈夫だから心配しなくて良いと言われた。

 その後、暑い夏になり、ほとんど、毎日のように、天一の家に来て、家事全般を助けてもらい続けて、9月10日、北川清実さんが2人目の赤ちゃんを出産した。元気な女の子で名前ら佐織、北川佐織と名付けた。つぶらな瞳の可愛い子だった。それを見て、母は、大喜びして、佐織を抱き上げた。また、面倒見て上げますから、宜しくねと、笑顔で話しかけた。その後も毎日のように来てくれて、北川清実の手伝いや子供達の面倒を見てくれ、天一は安心して、仕事に出かけていた。

 その後も、母は、息子、天一の家に継続的に来て、面倒を見続け、1994年も12月になり、12月24日の夜、クリスマスパーティーを開いて、ケーキと鶏の唐揚げを買ってきて、大人はビールを飲んで、今年1年の話をした。母は、土日、同年代の仲間とおしゃべりをしたり、日帰りでバス旅行に出かけたりして、人生をエンジョイしているようだった。
 
 しばらくして、1995年となり、近くの神社に初詣でに行き、子供達が健やかに育つように祈願して来た。この年も、特に変わった頃もなく、相変わらず、こまめに、母が、人の孫の面倒を見に、家に来てくれ、炊事、洗濯、掃除、買い物を手伝ってくれた。そして、苦労をかけるなと、息子の天一が言うと、可愛い孫に会えるんだから、こっちも楽しいよと笑顔で答えていた。

 休み冬が、終わり、3月、4月に、桜が咲き、その後、チューリップが一斉に咲き誇り、梅雨となった。夏は、暑く、日照り続きの日が続いた。秋が遅かった。そして、1995年がおわった、そして1996年があけた。特に、変わりなく、子供達も元気に過ごしたが、2月初旬に、長男の初男が咳をし始め、妹の佐織も熱を出したが、数日で回復して、インフルエンザでなくて安心した。その後も、変わらず、母、米子さんが、手伝いに来てくれた。

やがて春、桜が咲き、6月にはチューリップとなり、7月を迎えた。そして、1995年7月7日から、台風第5号が相模湾沖から太平洋を北上し、接近に伴い、本州南岸の梅雨前線の活動が活発となった。横浜における最低気圧 994.8ヘクトパスカル 最大瞬間風速 21mを越え、7月7日から11日の降水量271ミリ。大雨で道路損壊が多数発生した。

 その後、蒸し暑い夏を迎え、エアコンをかけ続ける日が続いた。そして、秋になり、冬を迎えた。そして、1997年を迎えた。この年も、特に大きな出来事は、なかった。そして1998年があけた。この年の4月から長男の北川初男が、地元の小学校に入学し、ランドセル、学用品、靴を買いそろえて、集団登校で、毎朝、団地の集会場前に集まり、上級生達と一緒に登校していった。
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