第29話:ボストンからワシントンへ

文字数 2,782文字

 当然ながら教員が自由に使える図書館やDVD,教材などは完備されていますし,教員は登録するだけで入場料が無料になり,ショップでの買い物も割引になります.また,2008年にはボストン科学館内の技術能力センターを基幹として,アメリカ中の教員「幼稚園から高校まで」を対象に科学技術教育法の教育プログラムを立ち上げている。このプログラムに参加するとノースダコタ州の大学から学士や修士の学位が授与される様だ。

 更に,ボストン科学館は、2005年からの3年間にアメリカの研究予算を配分する機関「NSF]から20億円の資金を得て、サンフランシスコにあるエクスプロラトリアムなどと共同でナノテクセンターを作るなど科学自体への貢献が大きい。ボストン科学館は、アメリカ、屈指の科学館ですが、科学教育に開かれた非常にすぐれた設備で日本でも見習うべきだと驚かされた。

 その後、タクシーでジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港に昼過ぎに到着した。そして搭乗手続きを取り、登場口の近くで昼食を取って、15時前の飛行機に乗り込んだ。トロントには17時に到着して、タクシーでホストファミリーの家に18時前に着いて、お土産を渡した。その後19時、夕飯を食べて、部屋に戻り、シャワーを浴びてから床についた。

  翌日の10時に、トロント時間21時に、初男からスカイプ電話をしようと連絡があり、10時半からボストン小旅行の話を始めた、ボストンは、欧州からの移民達は最初に、住み着いた土地で、歴史も古く、文化の香りがしたと話した。米国の名門大学MIT「マサチューセッツ工科大学」と全米No1の名門大学、ハーバード大学を見学し、その大学の雰囲気と学生の落ち着いた感じが好きになったと語った。

 特に、ハーバード大学は、レベルも学費も全米トップクラスということは、アメリカの金持ちの子供達の精鋭達が、競い合っていると言うことなる。自分の向上心にも火がついた気がすると話した。それを聞いて、父が、競争して勝子との重要性を知っただけでも得るものがあったねと言うと、そう思うと言い、もっと強く、賢く、男になるつもりだと宣言した。

 その後、留学の日が続き、いくら北部に位置するトロントいえども、非日射しの強い昼間は、木陰に入り、涼んだ。今回の留学の仲間で、中国人の宋賢哲という留学しに興味を持った。彼は、北京大学理工学部電子工学科で、将来、ソフトウェアを勉強するようだ。彼の頭の切れの良さには、協賛させられた。話も常に論理的で、討論でも隙を見せず、あいての弱点を見抜くと一気に論破するの姿に憧れた。

 そして、昼食の時、初男の所に来て、日本は良い国だから、戦わなくても、それなりの給料と身分が保証されている。小さい頃、うらやましいと思ったが、今は違う。日本の先人達が、頑張って、現在の日本は、できたが、それに甘えている日本の若者を見てると、厳しい環境で競い合っている中国の大学生の方が今後、リードしていくはずだと宣言した。

 それに対し、それは、総論的なことで、個人レベルでは負けない。なめるなよと言い返した。すると、それは頼もしいことを言うなと、彼が、笑いながら言った。しかし、初男は、高圧的なことを言うが、よく見ると、ただ、彼が、いきがっているだけと感じた。

 この話を聞いていた、アイルランドから来たジミーが、日本人の学生の中にも、強気な奴がいるものだと笑いながら近づいてきた。そして珈琲を飲みながら、ジミーが初男に、俺は、日本人の方が好きだよと良い、その理由は、ジェントルマンだからだと言った。中国人は、積極的で、強気かも知れないが、目的のためなら手段を選ばないところがある。」

 つまり、紳士的ではない。ルールを守ってこそ、競争であって、ルールを無視しても勝つ事だけに固執する中国人が多く、信用できないと、言い放った。初男が、それを聞いて、確かに自分もそう思うところが多いと話すと、だから気にしないで、お前は自分の信じるように一生懸命、努力すれば、認められるはずだと言ってくれた。
 その後、その黒人のジミーと急速に仲良くなっていった。

 やがて、最後の週末がやってきた。土曜の朝5時に起き、タクシーで、トロント空港へ行き、エアーカナダの登場口に行き、手続きを取った。その後、近くのカフェで。朝食をとり、8時過ぎの飛行機で飛び立ち、ワシントン空港に9時30分過ぎに到着した。ワシントンでは、ホワイトハウス、アーリントン墓地、リンカーン記念館とリフレクティングプールは、絶対に行きたいと思いチケットを予約しておいた。

 それに加えて、ワシントンモニュメント、航空宇通博物館の合計5ヶ所を回ろうと考えていた。最初に行ったのは、もちろんホワイトハウス、日本人が中に入ることができない事は調べて知っていた。そこで、外から眺めてみると、とにかく、白く、立派な建物であった。どっちが正面で、裏門なのかという素朴な疑問が浮かんだ。そこで、近くのアメリカ人に聞くと、南側が正面、北側が裏門だと教えられた。

 ホワイトの前の公園に、自転車で見回りする、お巡りさんがいた。また、ホワイトハウスの目に前の公園で、抗議運動の光景が見られ、驚き、近くのアメリカ人に聞くと、いつも来ているよと笑った。その他、どんぐりを頬張っているとリスもいた、その向こうには、ウエディングの花嫁さんと仲間達の集団がイベントを行っていた。次にリンカーン記念館へ行った。

 リンカーン記念館の中央の真っ白な大理石の席にリンカーンが座っていた。壁には、”government of the people, by the people,for the people ”「人民の人民による人民のための政治」という、ゲティスバーグ演説が刻まれていた。もちろん、この文は、抜粋の一部でしかなく、全文は、もっと長い文章となっている。

 米国史上最も重要な演説の1つと見なされているエイブラハム・リンカーンの「ゲティスバーグ演説」は、アメリカ合衆国が拠って立つ自由と平等の原則を表現することに成功している。そして米国の生存のために戦い、命を落とした人々の栄誉を誇らかに称えている。リンカーンは演説の中で、米国のための「自由の新たな誕生」に言及した。

 演説は1863年11月19日、ゲティスバーグ国立戦没者墓地の開所式で行われた。全体でわずか2分ほどの演説だった。ゲティスバーグの戦いは、1863年7月1日から3日にかけて、メリーランド州ボルチモアの北西50マイル「約80キロメートル」、ペンシルベニア州の田舎町ゲティスバーグで起きた。南部連合軍は、ロバート・リー将軍の北バージニア軍を先頭に、合衆国の領土を侵略した。
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