第4話:東京五輪と東海道新幹線

文字数 2,998文字

 東京大会の予算は1兆800億円と公表されている。これは、国費で建造した各種競技施設、国立陸上競技場の拡張、国立オリンピックプールの建設など、東京都が建てた駒沢オリンピック公園の諸施設などで、選手村の改造費、大会関連の高速道路や主要道路、さらに東海道新幹線の建設費なども関連経費に含まれている。大会の直接運営費は98億5800万円だった。

 その資金を国と東京都の補助金が、各16億8000万円、オリンピック資金財団が扱った寄付金が28億5500万円、入場料16億900万円、その他事業収入14億4300万円が主要財源となっている。他方、日本選手団の選手強化費としては20億円の巨費をかけ、競技運営に万全が期せられた。また、科学的施設・設備が取り入れられ、審判の器材、用具の改良などオリンピック史上最高のもので絶賛を浴びた。

 1959年には、北川の長男の北川天一は、6歳となり、近所の小学校へ入学した。そして1960年には、新横浜駅の場所が決まった。それによると、池辺作一が買った田んぼが、国鉄から新横浜駅周辺工事のために立ち退き料として1億円を超える金額を提示されて了解して1960年に4月には、池辺作一の口座に振り込まれた。この情報聞きつけた北川米子が池辺に、うまくやったわねと電話すると驚いていた。

 その晩、小机の食堂で会って、口止め料として3%の300万円振り込んでと北川が池辺に言うと、面会して直ぐ、絶対に秘密にするという誓約書を作成して、ここにハンコを押せと言うので、わかったと言うと、これっきりだぞと、きつく言い、300万円振り込みを約束した。その1週間後、北川米子の口座に300万円が振り込まれて、口座の金額が700万円になった。

 そして1964年「昭和39年」10月1日、東京駅を定刻6時に大阪行き、下り1番列車「ひかり1号」が出発した。この時、ひかり1号は、新横浜駅に止まらず、最初の停車駅は、名古屋駅で、8時29分到着予定で、次、9時34分に京都駅、終着駅の新大阪駅に、定刻通り10時に到着した。東京駅での出発式も盛大であり、新大阪駅での、お迎え式も大勢の人に大歓迎を受けた。

 東京オリンピックは、最初に、作曲:團伊玖磨の「オリンピック序曲」演奏で始まった。各参加国の国旗が競技場の観客席の最後段にあるポールから掲揚。作曲:黛敏郎の電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」が再生演奏。昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに着席。日本国歌「君が代」演奏。入場行進曲は、作曲:古関裕而「オリンピック・マーチ」の演奏開始。

「オリンピック・マーチ」の演奏にのせ、防衛大学校学生が国名のプラカードを持ち先導し、各国選手団が入場。昭和天皇は、ギリシャ選手団の入場から日本選手団の入場まで終始起立しこれを迎えた。また一般客や招待された各国の外交団は、日本選手団入場の際に開催国の選手団に敬意を表するために全員起立し選手団を迎えた。最後に入場した日本選手団が行進を終了した。

 これで全参加国の選手団が場内に整列した。ファンファーレ演奏。「オリンピック賛歌」合唱。五輪旗の掲揚。旗は競技場内を半周して、織田ポールに掲揚する。3発の祝砲がなった。オリンピック旗の引継ぎ。前回開催地のローマのあるイタリアの若者がオリンピック旗を持って小学生の鼓笛隊と入場。中央の式台の前にてローマ市長に渡された。

 式台上で市長からブランデージ会長へ、そしてブランデージ会長から東龍太郎東京都知事に渡された。オリンピックカラーの風船が多数、空へ放たれる。小学生の鼓笛隊が退場。聖火の入場。最終ランナー「坂井義則」がトーチを掲げながら入場し、トラックを半周した後にスタジアムの階段を駆け上がり、聖火台横にトーチをかざして立ち、聖火台に点火。

 燃え上がると同時に火炎太鼓の演奏。作詞:佐藤春夫、作曲:清水脩の「東京オリンピック賛歌」を合唱。各国選手団の旗手が国旗を掲げながら式台前に整列。選手宣誓。日本選手団の小野喬主将が行う。係員により鳩が大空に放たれた。日本国歌「君が代」斉唱。上空のくっきり晴れた大空にブルーインパルスの五輪の輪を描く。昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスから退席。選手団退場。

 聖火の最終ランナーが坂井義則に選出された理由は、広島への原爆投下の日の1945年「昭和20年」8月6日に広島県三次市で生まれ、陸上競技選手であり、その平和の象徴として選出された。オリンピック・リポーターとして新聞特派員記者を担当した作家の三島由紀夫は、聖火台に向う坂井選手を「日本の青春の簡素なさはやかさ」が結晶した姿と表現し、以下のようにレポートした。

 彼の肢体には、権力のほてい腹や、金権のはげ頭が、どんなに逆立ちしても及ばぬところの、みづみづしい若さによる日本支配の威が見られた。この数分間だけでも、全日本は、青春によって代表されたのだった。坂井君は緑の階段を昇りきり聖火台のかたはらに立って
、聖火の右手を高く掲げた。その時の彼の表情には、人間がすべての人間の上に立たなければならぬときに、仕方なしに浮べる微笑が浮んでいるように思われた。

 そこは人間世界で一番高い場所で、ヒマラヤよりもつと高いのだ。彼が右手に聖火を高くかかげたとき、その白煙に巻かれた胸の日の丸は、おそらくだれの目にもしみたと思ふが、かういふ感情は誇張せずに、そのままそつとしておけばいいことだ。日の丸のその色と形が、なにかある特別な瞬間に、われわれの心になにかを呼びさましても、それについて叫びだしたり、演説したりする必要はなにもない。「一部・中略」

 1964年「昭和39年」10月10日、開会式を終え、東京オリンピックの後日談となるが、第二次世界大戦のため、昔、予定されていた1940年「昭和15年」のオリンピック夏季大会を返上した東京は、連合国軍による占領を脱した2年後の1954年に1960年・夏季大会開催地に立候補した。しかし、翌1955年の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。

 次に1964年「昭和39年」夏季大会開催地に立候補し、1959年「昭和34年」5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。得票数は東京が半数を超える34票、アメリカ合衆国のデトロイトが10票、オーストリアのウィーンが9票、ベルギーのブリュッセルが5票だった。

 特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重「外交官」や中南米諸国の支持を集めるために奔走した日系アメリカ人の実業家、フレッド・イサム・ワダ、当時、都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。1957年当時、日本水泳連盟会長を務めていた田畑政治は、オリンピック招致費用が現在の価格に換算して1200億円かかることを懸念した岸首相 へ観光収入も見込めると直談判した。

 開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった。開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。
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