三章十節 品川、彼女に告げる、最後の決意(前) 

文字数 2,282文字

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 件の春合宿から早三週間が過ぎた。僕は新年度を迎え、一日もう一時間あればどんなに楽かと願うほど、日々多忙を極めていた。
 それは新たに受け持った一年クラスの入学業務であり、四月から移動した進路指導課の引継ぎ、そして部活指導。
 この春、天文部は、合宿での活動報告が評価され、去年の倍近い予算を得ることに成功した。
 多くの新入部員が加入し、すっかり人いきれの増した部室。夕方僕が、予算倍増を知らせに行くと、その場に居合わせた四人の上級生は、わっと歓声を上げ、
「マジっすか、先生! よし、今度こそ部の予算で新しい天体望遠鏡を買おうぜ!」
「ちょっと千賀、貯金して夏の合宿の費用に当てるに決まっているじゃない」
 拳を振り上げ勝利宣言する千賀に、それを制しながらもニヤニヤ笑みが止まらない早瀬。まだまだ緊張の解けていない新入部員が、若干引き顔を見せるほど、彼らは歓喜に沸き立っていた。
 しかし僕たちには何らおかしくない、それはすっかり馴染みの光景であった。
「清水先生。先生も予算会議で、しっかりアピールしてくれてありがとうございます」
 柔らかい微笑で近づいてきた真田に、僕は苦笑し首を横に振る。それと同時に僕もこの時、一つの覚悟を決めた。その晩、松岡の飲みの誘いを丁重に断ると、僕は一人の旧友に再会の旨の連絡を入れた。

 五月のGW。世間の盛上りとは裏腹に、僕はほぼ毎日、職員室のデスクで、大量の資料と格闘していた。
 それでも何とか業務の目途が立ち、最後の二日間、僕は兼ねての通り休暇を得ることに成功した。
 梅雨の訪れを感じさせる、小雨ふりそぼる夕暮れの都内。僕は山手線を乗り継ぎ、僕たちの待ち合わせ場所である、品川の波止場の見えるホテルで彼女を待ち合わせた。
 大きな噴水を配したロビーには、アジア系の観光客ですっかり埋めつくされていた。僕はその隅に腰掛け、経済新聞片手にぼんやりとエントランスの光景を眺める。
 フロント前では、なおもひっきりなしに訪れるアジア人観光客に、スタッフ総出で対応に追われていた。
 とその時、ネイビースーツ姿の華奢な女性が姿を現す。彼女は面前の喧騒も物ともせず、その間隙を縫って、こちらへと近づく。
 瞬間、彼女と目が合う。途端に彼女は頬を緩め、小さな吐息を漏らした。
 しかしそれは一瞬であった。すぐさま彼女はキリッとした表情に戻り、ヒールを大理石に反射させ、ロビーへと降りる。
「ごめん、お待たせ。久しぶり……ってそうでもないか。で、突然呼び出して、大事な話って何? また同棲している彼女の相談でも聞かされるの」
 すっかり大人びた女性になったとはいえ、学生時代からの毒舌は相変わらずだ。
 僕は忙しい中悪いと前置きした上で、一礼し彼女の方へと向かう。
「あぁ、その彼女とは別れたよ、紗英。いや今回はその話とは全く関係ない……そっちこそ不動産会社の彼とは元気にやっているのかよ。まぁその辺りの話も兼ねて、いつものあそこで飲もうか」

 ホテルから歩いて数分、船を模した芝浦運河のバーにて、僕たちは再会の乾杯を交わす。
 GW終盤ながら、生憎の天気と肌寒い気温も合わさり、船内はそこまで込み合っていない。
 それでも数組のカップルは、心地良い酔いを巡らし、雨の東京湾を眺めている。
「そういえば二年前も、こんな崩れた天気だったよな。急に品川のホテルに来られるかって連絡がきて、あの時は随分びっくりしたよ」
 カナッペ片手に当時を回想すると、彼女は首を垂れ、
「いや、あの時は迷惑かけた。本当に目の前が真っ暗になって、とにかく誰かに慰めてもらいたかったのよ」
 そう言い、ぐっとチャイナブルーを口に含む。
 紗英とは(もちろん外海とも)、山梨へ越して以降連絡が疎遠になり、大学入学以後はほぼ関係は途絶えていた。
 しかし大学四年次、彼女は就職先として都内の出版社を希望したらしく、就職活動期は名古屋のアパートと都内の会社を夜行バスで何度も往復していたという。
 連絡を貰った僕は、試験勉強もそこそこに、自宅の駒場から彼女の筆記試験会場である品川のホテルへと急いで向かった。
 久々に再会した彼女はロビーに一人ぽつんと佇み、最後の持ち駒が尽きたと、目を泣き腫らしていた。
 時を経た幼馴染の現況に、僕はいたく動揺した。それでも僕は必死に慰め、そして彼女を落ち着かせるべく、最寄りのこのバーへと連れ込んだのだ。
「あの時、都内に何人かの知り合いはいたのに、なんで敦生を選んだんだろうって、今でも不思議に思っている。まぁ、おかげで気持ちを切り替えられ、本命の出版社の秋採用を無事突破したって訳なんだけどね」
 そう満足そうに呟き、窓ガラス越しに、彼女も雨降り注ぐ船上を眺める。
「でもそれ以降、呼び出しているのはいつも敦生の方じゃない。半年に一度の頻度だけど、年末会ったばかりだし。って、本当に千洋さんと別れたの? 今回はその話とは違う?」
 ほのかに頬を赤らめ、僕の真意を測りかねるように尋ねる。
「うん、彼女とは結局、今年初めに関係は終わったよ。いや今回話すのは、紗英も知ってる、僕が最も愛していた女性」
 僕の言葉に、彼女はなおも首を傾げ、僕を見つめる。僕はちらりと外の景色を見ると、ぐっとジントニックを飲み干した。
 天から降りしきる雨粒は、街の薄汚れた空気を含み、絶え間なく汚川に吸い込まれている。
 その過程を街の人は、自然の織り成す美しさだと、好意的に捉えている。それはその実態を気づいていないかのように。いやその実態を知っていたとしても、無意識にそうではないと自分に言い聞かせるように。
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