三章二節 天文部(前)

文字数 2,513文字

    12

「清水先生、今年の春合宿、どうしましょう!?」
 初めて受け持った生徒を無事送り出し、ほぼ消化試合といっても良い三月の初旬。それでも校舎には、来る春休みを控え、未だ青春を謳歌し続ける若人であふれ返っている。  
 この日もひと月ぶりに部室を覗くと、もったりとした髪に柔和な笑みが特徴の部長山田が、妙に上ずった声で迫ってきた。
「あー、春合宿……いいんじゃない、今回も。一泊二日の尾高山で」
 えー、またかよー! 彼に続き、後ろのソファで不平を叫ぶのは、筋肉質の長身千賀。当部とは不釣り合いな体格ではあるが、意外にも天文学者を父に持つ無類の天文好きだ。
「せんせー、この夏と同じ尾高山ではさすがに興ざめですよ。今年はどっか、もう少し遠出でもしましょうよー」
 そう述べるのは、地毛の茶髪をウェーブに遊ばせた、お洒落女子早瀬だ。隣で控える真田の付き添いで入部したが、根が真面目な分、今じゃ積極的に部を引っ張ってくれている。
「遠出って言ったって、俺も次年度の準備で忙しいんだよ。まぁ、お前らが行きたいとこでもあるなら考えてもいいが。どっか気になる場所でもあんのか?」
 一応生徒の自主性を重んじ、四人の顔を見回してみるが、誰からもボールは返ってこない。何だよ、不満だけ言っておきながら、実際ないんかい。
「それじゃ尾高山で決……」
 そう口に出しかけたところで、デスク脇にて、それまで一言も発しなかったもう一人の部員がおずおずと手を挙げる。
「あの、私、実は……気になっている観測スポットがあるんです」
 声の主は、千賀に負けず劣らず天文好きで、部の再設者、黒髪ロングに丸眼鏡がトレードマークの真田だ。
「観測スポット?」
 オウム返しに尋ねる早瀬に、彼女はうんと緊張で顔を上気させつつ、
「長野に、なんでも日本一の星空と称される村があるみたいなんです。そこが今月末に、大規模な天体イベントを催すらしくて。良ければ皆と行ってみたいなって」
 熱の篭った声できっぱりと言い切った。
「ふうん、長野か……」
 普段控えめな彼女が、一人主張するからには、よほど行きたいのだろう。生徒の希望は極力叶えてやりたい。しかし、だ。都外の合宿は、他の部活動を含めても異例中の異例。
「長野――俺も、賛成です! 東京より澄んだ夜空で、しし座やおおぐま座もきっと一層綺麗に見られるはず!」
「あたしも、あたしもっ! それに信州そばにおやき、五平餅も食べられるし!」
 真田に続き、千賀、早瀬もこれ幸いとばかりに畳みかけてくる。
「お前ら真田の意見に乗っかるな。ってか最後は天体観測、全く関係ないし」
 そう言いながらも、部内に生じた一つの大きな高揚感に、つい口元が綻ぶ。とりあえず職員会で諮ってみるわ、僕の提案に、四人は一斉によろしくお願いしますと頭を垂れた。

 その週末の退勤後、馴染みの飲み屋にて松岡と月一同期会が開かれた。
 今回の議題は専ら、松岡の別れ話であった。あんな人とは思わなかっただの、結婚までまっしぐらと思っていただのと、目を潤ませながら延々と愚痴を零す彼女に、今日の僕はただただ聞き役に徹していた。
 小一時間経っただろうか、さすがに散々鬱憤をぶちまけ満足したのか、彼女は急に声のトーンを一つ落とすと、
「それで、私たちも無事一年やり遂げたんだけど、どうよ? 清水先生、確か来期は一年生を担当するんだよね。大変よー、まだ幼さの残る彼らを相手に、日々指導していくのは」
 刺身の残りをつつきつつ、漸く仕事の話題に転じた。
「ありがとう。ってか、俺も松岡先生みたく、持ち上がりだったら良かったのになぁ。この数週間、新たな生徒の準備で、もうてんやわんや。おまけにうちの部活でも、予期せぬ事態に突入するし」
 来期から彼女は、一足先に担任へと昇格する。業務量では彼女の方が僕より圧倒的に多くなるはず。そう思いながらも、本日毒を吐き出していない分、つい本音が飛び出てしまう。
「部活動? バスケ部の方は佐々木先生が随分熱を入れているじゃない。あんたの方で、何か手を煩わせることでもあんの」
「いや、そっちじゃなくて天文部の方。真田が春合宿、長野へ行きたいって言いだして。そしてそれが部員の総意にまで発展して」
 新たにレモンサワーを注文し、空になったグラスの氷を弄ぶ。彼女はあぁそっちねと、大して驚きも示さず、
「真田さんか。確か彼女が去年、潰れかけの天文部を復活させたんだよね。必要最低人数の四人をかき集めて……天文が好きとはいえ、青春ね。大した根性よ」
 同じ学年の担任として誇らしいとばかりに賞賛の語を呟く。
「しかも彼女、家が貧しい分、奨学金を活用して、ぎりぎりで入学したのよね。家に帰れば家事や兄弟の面倒も見続けているっていうし。それでも好きなことにも全力投球って、本当に素晴らしいことだわ」
 彼女の言葉に、以前真田と交わした会話を思い返す。確か去年の晩秋だったか。たまたま定期テストで順位が大幅に落ちたことを知った僕は、彼女に部活が重しになっているのではと尋ねたことがある。
 他の部員が出払っていた、二人だけの部室。秋の日はつるべ落としとばかりに、辺りは急速に夕闇が支配していた。
 僕の詰問に対し、彼女は銀縁のフレーム越しに、困惑した瞳を宿らせる。それでも怯むことなく、
「そんなことはありません。次のテストでは必ず取り返してみせます!」
 普段のおとなしめな性格とは打って変わり、力強くこう言い張った。
 果たして年明けの試験。彼女は自己最高を上回る総合順位を獲得した。職員室まで来て、自身に成績表を誇らしげに提示する彼女。その勝ち誇った笑みに、妙に懐かしい記憶が一瞬よぎる。
「私たち教師は、悩んでいる生徒の道しるべになるべきだし、生徒が間違った行動をしていたのなら、当然正さなければいけない」
「それでもとある目標に向かって、試行錯誤している時は。その時は、私たちは彼らを見守り、黙って応援するべきなのよね」
 ぽつりと呟く彼女の幼い顔は、うっすら桃色に上気していた。ねぇ、清水先生もそう思わない? 先程の態度が嘘のように、自身の仕事の意義に苦悩する若き指導者に、僕は黙って頷くだけであった。 
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