二章七節 町議会議員質問(前)

文字数 3,013文字

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 通学バスの車窓からは、既に満開の菜の花が咲き乱れている。来期も継続する生徒会資料に目を通し終えた僕は、ぼんやりと夕暮れの畑地を眺める。
 早朝のエネルギーに満ち溢れた姿とは異なり、夕陽に陰る黄色の絨毯は、その間だけ本性の美を醸し出しているようで、僕は好きだ。
 下車後今日も寄り道をせず、真っ先に自宅へと向かった。帰宅すると時刻は一九時手前を指し示している。空腹に苛まれ、少し早いかと自問しながらも、結局ラップに包まれた晩飯を一人黙々と掻っ込む。
 テーブルの端には、近所のカフェのエプロンが脱ぎ捨てられていた。どうやら今日もバイト後そのまま父の事務所へと向かったようだ。近々父への議員質問があり、それの手伝いとはいえ、父母とはこの一週間全く顔を合わせていない。
 件の騒動後、母は完全に僕に失望し、気の赴くまま家を空けることも増えた。僕が学校にいる日中、時々家に帰宅し家事を一部行っている。
 〝この親不孝者〟富山帰り後、涙をたたえ玄関で張り飛ばした母を思い出し、僕は贖罪とばかりにそれを受け入れている。

 もそもそと五目豆を頬張っていると、不意に家の固定電話が鳴る。誰だろう、親ならスマホの方に連絡がいくはず。訝しみつつ、受話器を上げる。
「敦生君かい? ご無沙汰しております、秘書の山根です」
「あー、山根さん。こちらこそ、お久しぶりです」
 独特の甲高い声で、丁寧に語りかけるのは、長年父をサポートする秘書の山根であった。
「どうされました、あっ、父ですか。それなら……」
 彼は昔から急用の際、家にいる父を呼び出すことも多かった。そこまで言葉が出かかったところで、ふと疑念が生じる。
 父への取次なら、最近全く帰ってこないこちらに、連絡が来るのはおかしい。そもそも電話機の着信番号は、父の事務所を指し示している。さては質問準備を抜け、山根と連絡を絶ち、外にでも出歩いているのか。
「や、お父様ならこちらで、今日も美和様と政務に励まれていますよ。実は今回の連絡は敦生君にでして。もしよろしければ、次の議員質問ですが、ご見学に来られませんか」
「え?」
 突然の提案に面食らう。彼が僕にアプローチをかけるのは、長い父との秘書生活、皆無とはいわずとも、本当に稀だ。
 僕の戸惑いを見透かしたように、彼はびっくりしたよね、私だって驚きますと、くだけた口調で笑い、
「確か敦生君、来月で高二になるんだよね。この機会に、お父さんの働いている様子を、一度見てみてはどうかな。何か得られるものも、きっとあるだろうし」
 かつても折を見つけ、彼は僕にこう提案をしてくることもあった。彼自身も父と同様、僕に議員を継いでほしいと思っているのだ。だがそれを厭う僕は、これまで一度たりとも父の仕事姿を見に行ったことはなかった。
「実はお父さん、今回取り分け準備に力を入れているんだよ。まるでその頑張りで、誰かを鼓舞するかのように。その誰かって敦生くんじゃないかなって。ほら最近、元気がないって聞いているし」
 時折見せる素の山根の言葉に、ぐらりと心が揺れる。父が僕のために頑張るなんて、そんなことあるはずがない。それでも、それを抜きにしても、親との関係が破綻している現状、行動を通し少しでも改善を得たかった。
 別に予定が入っているなら大丈夫だから。そう気遣いを述べた彼に、僕は暫く考えさせてくださいと述べ、電話を切った。
 僕がこれまで毛嫌いしていた、父の議員生活を見学したいと言ったら、親は一体なんというだろうか。
 ともかくまずは一度相談してから。閉塞した生活を改善したいと意気込む僕にむなしく、この日も父母は家に帰ってくることはなかった。

 母と顔を合わせたのは、それから二日後のことである。学校から帰宅すると、丁度自宅にある書類を取りに来たのか、大きな紙袋を持つ母と、玄関口で遭遇する。
「……ただいま」
「あぁ、おかえり……今日も母さん、事務所に泊まり込みになるから。悪いけど、引き続き留守番お願い」
 まるで避けるように僕をすり抜けると、彼女はいそいそとドアノブに手をかけた。
 この時、揺れ動いていた僕の決意が、爆竹のように、バチッと心の中で弾けた。
「あの、母さん」
「……何、悪いけど私急い……」
「来週だけど、お父さんの議員質問会、傍聴しに行って良いかな? ほら、三日後から春休みに入るし、やはり一度ぐらい見学してみようかなって」
 面倒くさげに振り向く母に、僕はこの数日来考え続けた思いを一気にまくし立てた。
「……」
 言い終えると、母は身じろぎ一つせず、じっと僕を見据えた。以前の母なら、息子の父への接近に、大いに喜んでくれただろう。  
 だが彼女は無表情のまま、やがてはぁと一息吐くと、
「別に、あなたにその気があるなら、いらっしゃい。でも当日、私たちは大忙しだから、わざわざ顔見せとかには来なくていいから」
 投げやりにそう述べると、腕時計を見やり、それじゃ行くねと言い残し、外へと去って行った。
 再びぽつんと一人、家に取り残される自分。破綻してしまった家族との関係。それでも、真っ向から拒否されなかっただけ、まだましだ。僕はそう心に言い聞かせ、今夜の塾の予習に、二階へと向かった。

 終業式を終えた翌日の早朝。この日も一人朝食を済ませた僕は、用意を整えると、普段の通学時とは異なる、昨夏、紗英と共にした馴染みのバス停へ向かった。
 道中、季節外れの暖かさながら、春雨降りそぼり、すっかり着古した制服が、瞬く間に水気を含む。
 不快な思いで、傘に身を縮めると、丁度十字路の端、錆び付いたカーブミラー下に、淡く映える草花が目に入った。
 吸い込まれるように近づいてみると、それは一輪の薄紫色の朝顔であった。なんでこんな時期に。訝しみつつ、うっすら開く花弁を覗き込むと、途端に死んだ祖父の言葉が頭をよぎる。
(朝顔の花言葉はの、儚い恋なんじゃよ)
 生前口癖のように、何度も僕に語っていた語。それは二年前の初夏、三人で満開の朝顔を目にした時の、祖父の寂しげな表情と重なる。
 お互いの立場上結び合えず、それでも文さんへの愛を貫き通した祖父。リスクを背負ってでも文さんを守り続け、それは両者満足いく形で終わりを迎えた。
 花弁に浮かぶ水滴に、自分の無機質な表情が浮かぶ。
 この時漸く、僕はしきりに口にしていた祖父の言葉の真意を、理解出来たような気がする。
 と同時に、薄気味悪い震えが全身を襲う。
「あぁ、そうか。この気持ちはやっぱり」
 今まで意図的に考えるのを避けてきたが、それでも体は正直に反応してしまう。
 つまりはそういうことだ。でも自身もその気持ちに、正面から向き合うべきなのだろうか。 
 すかさず年始の富山での二日間が、悪夢のようにフラッシュバックする。焚き火の汚臭、くぐもった呻き声、そして真っ暗闇の中の左手の鈍い重み。
 不意にトラックが水しぶきを上げて、僕の傍を通過する。慌てて我に返った僕は、時刻を確認すると、急いでバス停へと駆ける。
 幸い定時少し遅れで到着したバスは、気温に比し、随分と暖房が効いていた。むわっとこもった空気が、即座に狭い空間を包む。
 だが自身の気持ちを理解した僕は、そんなこと気にも留めなかった。やがてべっとりとした汗が脇下から全身へと流れる。
 それが暑さなのか動揺の表れか、この時の僕には知る由もなかった。汗は暖房が切れてもなお、一向に留まる気配はなかった。
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