一章五節 墓参り(後)

文字数 2,579文字

 電車から降りると、いつの間にか黒雲はどこかへと消え去り、入れ替わるように雨上がりの空にまばゆい日差しが差し込んでいた。
 駅前の住宅街を抜け、濡れそぼる雑草の生い茂る郊外へ。僕たちはとりとめのない会話を楽しみながら、目的地へゆったりと進んだ。
「ここじゃ」
 小高い丘を少し越えたその先に、一軒の古びた大きな寺院が構えていた。門の隣に設えられた木版字は、既に読めないくらい廃れていたが、境内は驚く程綺麗に掃き清められている。
 道中とはうってかわり、さすがに祖父も千寿も神妙な表情で、集団墓地へと向かった。僕はそんな二人と別れ、駅前の花屋で買った仏花片手に、一人水道場で準備に取り掛かる。
 彼女たちの姿はすぐに見つかった。斜面に沿って大量の墓石が連なっていたが、丁度参道の端に位置していたため、開けた入口で認知出来たのだ。
「おーい! ちょっとてつだ……」
 バケツの水と仏花を携え、声を上げかけた僕は動きが止まる。視界の先には、墓前の前で泣き崩れる彼女と、それを悲しげに見つめ天を仰ぐ祖父の姿があった。
 気づけば僕は踵を返していた。そうさ。今回僕は彼女に請われる形で、お墓参りに同伴したが、そもそも僕は何一つ無関係だ。祖父は過去の何事かを彼女に打ち明けたのだろう。それはきっとこの地で安らかに眠る、祖父の愛人で千寿の祖母、文さんのことについて。
 だが僕は正直どうでもよかった。文さんなんて僕にとっては赤の他人だ。祖父の過ちも、それによって生じた千寿のこれまでの生い立ちでさえも、知ったところでどうすることも出来ないのだ。
 少し時間をおいて、僕は再度墓地へ向かった。千寿は既に泣き止み、泣き腫らした顔をしていたが、おくびにも出さず、遅すぎですと小言をぶつけた。僕は謝り、三人で花と線香を供えお参りした。
 寺院を出ると、先程は気づかなかったが、向かいの草むらに満開の朝顔が生い茂っていた。赤青、爽やかな色合いにて咲き誇るそれは、露の帯びたまばゆい光を僕たちに投げかけた。
「綺麗な花よ……」
 それまでずっと黙り込んでいた祖父が、ふいにぽつんと呟いた。即座に彼はこらえきれず、今日初の煙草をくゆらせる。
 以降駅前までの道中、僕たちは一言も発せず帰路を急いだ。重い足取りで歩く僕たちに、千寿の持つ水玉傘だけが随分浮いていて、何ともおかしかった。

 墓前で祖父が彼女に語ったであろう話は、図らずも帰りの喫茶店で僕も聞かされることとなった。
 純喫茶という語がぴったりなレトロな雰囲気漂う店内。喫煙室に通された僕たちは、お店一押しのフルーツパフェをつつきながら、祖父の過去に耳を傾けた。
 祖父と文さんは学生時代からの仲であったらしい。お互い読書が趣味とのことで、本を貸し借りしている内に、気づけば恋仲になっていたという。だがかたや大地主の長男坊、かたや水呑百姓出の娘、二人が結ばれることは望むべくもなかった。やがて祖父が一回限りの過ちで文さんの子を孕ましてしまったのは、彼が僕の祖母優子とお見合いをする間際のことであった。
 仰天する祖父に彼女はこう告げたという。お願いだから産ませて下さい。たとえ金輪際あなたと会わなくても、お腹の子をしっかり育てきってみせますと。彼女の決意の固さに、祖父は渋々承諾した。なおこの件に関して、祖父の両親や優子は知らないままでいた。
 結局、結婚後も文さんは独り身のまま、祖父と何度か連絡を取り合い(時には援助も施し)、彼女の死没と娘(千寿の母)多江が富山に嫁いで暮らしていることを祖父が告白したのは、五年前、優子の通夜でのことである。
 真実を知り怒り狂った父母に、祖父はこう告げたという。過去の話じゃ、この話を知ったところでお前たちには全く関係無い。
 だが現実問題として、数年後に多江の娘千寿が、肉親不在の状況下、我が家へと居候することになった。
 
 一通り語り終えた祖父は、手元のくしゃくしゃに押し潰されたカートンから煙草を一本取り出す。彼が頼んだアイスコーヒーの氷は、とうに大半が溶けきってしまっていた。
「すまない。私の一回の過ちで、お前のおばあさんの人生を狂わしてしまった。それにお母さんやお前自身にも、辛い思いをさせた。謝って済むことじゃない、でも、それでも、わしゃ……」
 僕たちに、深く頭を下げる祖父。そのなんとも異様な光景に、奥からウェイトレスが訝しげに僕たちを見つめる。
 それまでうつむいていた千寿は、ふと淀みのない視線を祖父に向ける。彼女は一瞬躊躇いながらも、落ち着いた声音で、
「おじいさん。そうは言いますけど、実は祖母は自分の人生に、随分納得していたようです」
 彼女の一言に、僕は驚嘆の声を漏らす。それは祖父も同様だったようで、にごりきった瞳をぎょろりと向ける。
「私、過去に一度だけ祖母と会ったことがあるんです。小学生の頃、富山に来てくれたことがあって。その時私に、こう言ってくれました。『千寿や、私の人生辛かったけれど、十分満足しているよ。想い人とは結ばれなかったけど、彼は一生私を気にかけてくれたから』」
「『千寿よ、好きな人と結ばれるだけが人生じゃないよ』と」
 彼女は恨み妬みなどなく、ただ当時を懐かしむかのように、その事実を伝えた。いつしか彼は顔を覆い、しわくちゃの右手からは紫煙が宙へと舞っていた。彼女は、彼女の祖母と離れた祖父に、一体何を思っているのだろう。
 結局今回は、祖父の懺悔だけで、僕たちは喫茶店を後にした。肝心のこれまでの千寿の過去については、ついぞ彼女の口からは聞けなかった。
 休日の昼下がり。随分と混み合った駅前で、僕は彼女の手元に件の水玉傘が見当たらないことに気づいた。僕が指摘すると、彼女はあっと素っ頓狂な声を上げ、僕は即座に先ほどの喫茶店へと駆け出した。
 はたして傘は喫茶店の傘立てに忘れられていた。僕はそれを引っ提げ、電車の発車時刻ぎりぎりに彼女の下へと戻った。
 彼女は水玉傘を受け取ると、嬉々としてそれを抱きしめ、
「ありがとう、忘れたことに気づいてくれて! 電車に乗っていたら、また引き返す羽目になっていました」
 千寿は祖父の見えないところで、満面の笑みを僕に向けた。その笑顔に僕は、急いで走った疲れも忘れ、彼女がまた少し僕に心を開いたように思えて、この墓参りが大変意義深いものに終わったことを実感した。
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