一章一節 祖父の隠し孫

文字数 2,736文字

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 校庭の桜並木は、既にいくばくか若葉が混じり始めていた。もう桜も終わりか。春はまだまだこれからだというのに、妙に季節の移ろいを感じてしまうのは、家庭の影響か妙にじじくさい。
「お待たせー、悪い、遅くなって! なんか今日柴田ちゃん機嫌悪くってさぁ、最後の大会近いのに気合が足りないーって、もう延々と説教すんの」
 武道場脇から走ってきた外海は、防具の匂いをかすかに漂わせつつ、廃れた自転車置き場で待つ僕に頭を下げた。
「大丈夫。こっちもさっき部活終わったとこだし。柴田先生、確かに今日ご機嫌斜めだったよね。理科の時間も誰に矛先が向くかと、皆おっかなびっくりだったよ」
「だよなぁ。でも何であんなにイライラしてたんだろ。車新調して随分ご機嫌だったのに、さては奥さんと喧嘩でもしたなぁ」
 彼は剣道部顧問、柴田先生の不機嫌な要因を、あれこれ邪推しながら、ゆったりと自転車を漕ぎ始めた。それを僕は、昔と変わらぬ姿に安心するよう、微笑ましげに黙って相槌を打った。
 幼馴染である外海とは、中学入学を期にやや疎遠となっていたが、今年同じクラスになってからは、再びつるみ始めるようになった。新しいクラスで知り合いの少なかった僕にとっては、積極的にアプローチをくれる彼の存在は、頼もしくかつ非常にありがたかった。
 のんびりとペダルを漕ぐ外海は、道行く同級生からしきりに声をかけられている。さっき柴田先生に叱られてたなとか、俺らと一緒に歩いていこうだの、そんな彼らの言葉に律儀に返答しながらも、彼は決してペダルを止めなかった。
 学年が上がっても相変わらず人気者だな。彼の後ろに続く僕には、誰も一言も交わさないことなど気にせず、僕は人懐っこい笑みを浮かべる彼を、半ばまぶしげに見つめた。
「今日はあいつらに構ってられねぇんだよ。なっ、早くいつもの公園で、お前に課題を教えてもらわないと」
 石張りの橋を渡ると、彼はぐっと自転車のギアを上げる。ここから川沿いのなだらかな斜面は、僕たちにとって最も心地よい瞬間だ。穏やかな向かい風が、僕たちを涼しげな空間へと誘う。だが彼は突如急ブレーキをかけ、
「あっれー、紗英じゃん! うわ、ずいぶんご無沙汰、久しぶり―!」
 目の前で自転車を押す、もう一人の幼馴染に、その小柄な手を目一杯に振った。

 振り向いた彼女は、一瞬苦虫を噛み潰したような顔をした。そして僕らを無視し、隣を歩く、同じソフト部仲間と再び会話を続けた。
「っておい、しかと? んだよつれねぇな。三人が揃うって、滅多にないことだろ。お前らも今まで部活? なぁ、今日の塾の課題ってもう終わらせた?」
 ぴたっと彼女たちの後ろにつけた外海に、紗英は観念したようにため息をつき、
「なに、敦生。芳樹なんか連れちゃって。もしかして数学のプリント写させろって、強要されてるわけじゃないよね」
 外海の言葉は無視し、僕に少し心配そうな顔で尋ねた。
「そんなわけあるか。『角田屋のアイスキャンディー』と引き換えに、ちゃんとご指導いただいてるんだよ。でも敦生の教え方、本当わかりやすいんだぜ。紗英の時とは、もう雲泥の差」
 割って入った外海の手厳しい一言に、紗英は顔を真っ赤にし、反論の口を開きかける。
 だがそれよりも早く、それまで黙っていた隣のそばかすちゃんが、少し緊張した声音で、
「もしかして、紗英ちゃん。外海君と幼馴染なの? 凄いね! 私全然知らなかったよ~」
 羨ましさ半分、彼と知り合えた愉悦感半分とばかりに、のんびりした口調ながら、目を輝かせ呟いた。
 何が凄いのやら。だが彼女は罰が悪そうに、まぁ、そうね、とお茶を濁し、代わりに外海が生き生きと語りだした。
「そうさ。俺ら子供の時に、体のほくろの数、数え合った仲だもんな。確か敦生が二四、紗英が……」
「ちょっ、本当に死んで!」
 そばかすちゃんの短い悲鳴と共に、外海は紗英の鍛えられた腕にて自転車ごと道端に倒される。外海よ、丁度脇に鬱蒼と茂った草むらがあって良かったな。
 
 それから彼女たちと別れ、僕は幼い頃からの遊び場である公園にて、外海に指導を施した。だが思いのほか課題の量は多く、かつ問題にもてこずり、全てを解き終えた頃には既に日も少し傾きかけていた。
「ん~、終わったぁ! 敦生、今日もありがとう! お前のおかげで、今回もペナルティは回避出来そうだぜ!」
「わかったから、次の休日、また『角田屋』な」
 課題を終え満面の笑みを浮かべる彼に釘を指すと、真っ赤に染まった世界を背に、家路を急ぐ。
 外海の指導にばかり気を取られ、自分の残っている課題にうまく取り組めなかった。
 なんとか二時間後の塾の前に、全てを終わらせなきゃ。僕は猛スピートで、一本道のキャベツ畑をひた走った。
 眼下に広がる、影を落としたキャベツの群は、妙な存在感があり、この時の僕には何とも不気味に映った。

「ん? 親父帰ってるのか」
 汗だくになりながら広いガレージに自転車を止めると、黒塗りのアウディが停められている。今週は深夜まで帰ってこないと言っていたはずだが。げっそりとした気持ちで玄関の戸を開けると、父親の一際でかい革靴の他、見慣れない小柄のローファーが綺麗に履き並べられていた。
「誰か客でも連れてきてんのか」
 廊下の先の客間に目を向けると、そこは薄気味悪いほど静かであった。閉ざされた襖扉は、ことさら僕を拒むよう、いつもより迫り来るものがあった。
 僕はその横をこっそり通過すると、二階の自室へ向かった。着替えを済ませた後、少し逡巡したものの、再び客間へと向かった。以前客が来ているのに挨拶もせず、親父から怒鳴りつけられたことがあった。以降僕はどんなに忙しくとも、帰宅した際は、必ず一言挨拶するよう努めている。
 襖の前に立つと、僕は居住まいを正し、軽く扉を叩いた。
「お父さん、ただいま、戻りました。今日は一段と……」
 すっと襖を開け、頭を下げる。その視界の先には、綺麗な短髪姿の小娘が、怯えた野うさぎのように、小さく縮こまっていた。
「あぁ、敦生、戻ったか……丁度いい、いいかよく聞け。この娘は、じじいの腹違いの孫なんだと」
「今日からこの家で暮らしたいと、はるばる富山から訪ねてきた」
 珍しく父が困惑した表情で、吐き捨てるようにこう告げた。
「はっ? いったい、どういう……」
 きょとんとした僕に、彼女がおずおずと僕を見据え、
「はじめまして、美山千寿と申します。今日からこの家にご厄介になります。不束者ではございますが、暫くの間、どうかよろしくお願いします」
 彼女の震える挨拶の後ろで、祖父がばつの悪そうな笑みを浮かべている。
「は? この家にご厄介?」
 これが僕が千寿と顔を合わせた、初めての瞬間であった。
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