一章十一節 離別(後) 

文字数 2,771文字

 仏間にて祖父へのお参りを済ませた彼女は、客間に通されると恐縮した態度で、座布団へと着座した。
「初音さん。どうぞ、足を崩して。ん、この位置だと千寿に冷たい風が当たらないな。おい、美和! もう一台、部屋から扇風機を持ってこんか!」
 叔母とは対照的に、平然と綺麗な姿勢で正座する千寿。そんな彼女を気にかけ、父は母へと怒鳴り散らした。
 何が、冷たい風が当たらない、だ。今まで千寿のことなんか、一度たりとも気にかけてこなかったくせに。
 部屋の片隅に控えた僕は、父の態度に内心毒づきながら、ふとこの部屋で初めて千寿と対面した瞬間を思い起こした。
 現在と同様、高圧的な態度で座る父と向き合い、怯えた野うさぎのように一人縮こまっていた彼女。あの時その場にいた、唯一の味方祖父は、先日天へと旅立っていった。それでも今の彼女は、あの頃の彼女とは違う。叔母と父、二人の壁を相手に毅然と立ち向かっている。
 葬儀後の車中での出来事を思い返す。僕たちの今後を気にかけ、早々の富山行きを父に直訴した彼女。あの時宿っていた、覚悟を決めた揺るぎない瞳。それは夜中の車中から先日の夕方の河川敷へと変わる。
 あれはこの一年半、ここで暮らして得た彼女の成長の証だ。
「叔父様、私は大丈夫ですので、お気になさらず。ところで初音叔母様、今回の急な来訪は一体……」
 事前の電話でも、今回の来訪意図は告げられていなかったらしい。首をかしげる千寿に、彼女はニコリと微笑を浮かべ、
「そんなの、今までお世話になった皆様への、お礼の挨拶に決まっているじゃない。いくら体調を崩していたとはいえ、千寿を一年半程育てていただき、本当に感謝の言葉もございません」
「いえいえ、感謝の気持ちは死んだ父へ。私たちは何も。しかし千寿ちゃんは本当に良い子でしたよ。例えばいつぞやの夕食の時なんか……」
 熱く感謝の気持ちを伝える初音に、つい気を良くした父は、母から得た彼女のエピソードを、絶賛するかのように語り始めた。
「まぁ、そんな出来事が! 富山にいた頃の千寿には、とても考えられないこと。ふふっ、これも皆様の熱心なご教育のおかげかしら」
 にこやかに談笑する彼らの端で、千寿は黙って二人の様子を眺めていた。時折、話を振られ口を開くものの、まだ何かを待ち構えるかのように、一向に緊張の糸を緩めなかった。
「あらあら、そんなことも! ふぅ、まだまだお聞きしたいことは山ほどありますけれど、皆様のご都合もありますし、そろそろお暇しますわ。この一年半程の千寿の様子が聞けて、はるばる富山から来た甲斐がありました」
「なんの……もう帰られますか。もしかして今日また富山に。もしよろしければ、家の布団一枚空いていますよ」
 すっかり彼女に気を許した父は、珍しく我が家への宿泊を勧めた。
「いいえ。お気持ちは大変有難いですが、実は近くにお宿を取っていますの。もうすぐタクシーも来てくれる時間ですし、あっ、そうそう千寿」
「明日の昼過ぎに、こちらの宿にいらっしゃいな。そのまま富山には帰るから、それまでに荷物をまとめておいて頂戴」
「えっ?」
 変わらぬ笑みを湛えながらも、有無を言わさぬ調子で紙切れを渡され、千寿は二の句が告げなかった。
「あれ……失礼ですが叔母様。千寿の富山行きは、二週間後ですよ。確かまだ荷物の整理も出来ていないですし、それに何より、三日後には彼女がこの一年半打ち込んだ部活の集大成、夏の大会が控えているのです」
 お互い顔を見合わせながらも言葉をかけない父母に代わって、慌てて僕が、叔母が既に知っているだろう事項を確認した。
「あぁ……その件ですが、実は九月から、千寿の働く製薬所。急遽来週から人手が必要となってしまったんですの」
「今正二様から聞いた話によれば、既に退学の手続きは済まされているのだとか。そりゃ学校の行事については残念でしょうけど、実は私、この数年で大きな貯蓄をしまして。お詫びにそのお金で、千寿の欲しい新生活用品を買いましょう!」
 なんて自分勝手な。一方的な都合を押し付ける彼女は、千寿の意向など一切気にしていなかった。もしここで千寿が拒否する態度を取ろうものなら、この場でも彼女は手を挙げるのだろうか。
 悪びれもせず同意を求める彼女に、千寿は伏し目に黙していた。
 何を躊躇う必要がある千寿。お前は仲間と吹奏楽をやり遂げるんじゃないのか。朝から夕方まで、より良き音色を求め、一心にフルートを奏でる彼女。今のお前なら、叔母にNOを突き付けるぐらい訳は無いはず。
「……わかりました、叔母様。この後急いで、富山に帰る準備を進めます」
 期待、自らの意思とは逆の言葉を言い終わらぬ間に、叔母は嬉々とした声を上げ、
「そーう? ありがとねぇ、千寿! それじゃぁ皆様、唐突ではありますが、明日私たちは富山に帰ることとします。最後までご迷惑をおかけ……ほら千寿! あなたも一緒に!」
 おもむろに立ち上がり、千寿にも起立を促した叔母に、僕はもう黙ってなどいられなかった。
 とっさに彼女の前に立ち塞がると、半ば無意識にそのたるんだ顔に詰め寄り、
「なんで……なんで、そんな自分勝手なことが出来る、あんたは! あんた、改心したんじゃないのかよ! これじゃ千寿を任せられない……また千寿を傷つけ続ける」
 我を忘れ、仰天する千寿の面前で、僕は叔母に想いをぶつけてしまった。
「自分勝手……なによ、あなた! 私は千寿のことを誰よりも考えています。だからこそ、こうして、今日遠路富山から」
「だったら、どうして一回千寿を手放したんだよ! そもそもどうして千寿の体を――」
「おい、何を血迷った!」
 バシッ!
 気づけば叔母の胸ぐらを掴みかかっていた僕は、親父の強烈な右フックに膝からくずおれた。
「てめ、一体……すいません。うちの息子がなんて無礼な真似を。お怪我はありませんか……千寿もびっくりしたな、ははっ」
 慌てて二人に頭を下げる正二に、叔母も一瞬何事かわからず放心していたが、
 ティロリロリン!
 スマホの音が鳴ると突然我に返り、画面を確認すると、
「あらま、いけない! タクシーのお時間。それじゃ私はこれにて。千寿。明日までに早く、荷物をまとめておくのよ」
 彼女に念を押し、いそいそと部屋を後にしていった。
「どうして……やっと自分の意思を示せるようになったんじゃ」
「……叔母はなんにも変わっていなかった」
 彼女のか細い声を聞き終わらぬ間に、僕は激怒した親父により、納屋へと連れて行かれ閂をされた。小さい頃以来、とんとご無沙汰の牢ではあったが、この時の僕は、夜通し出すよう叫び続けた。しかしその甲斐無く、声もとうに枯れ果てた早朝、解放された僕が家へ戻ると、既に千寿は出て行った後であった。
 これが、僕が彼女とこの地で楽しく過ごした、最後の時間であった。
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