最終章六節 六月一四日、傘(中)

文字数 3,722文字

「ここが、祈りの間か」
 物々しい戸を前に、気圧されたようについ口ずさむ。
 階段を上がり切った僕は、突き当たり、昨夜の広間とは真逆の位置に一室の部屋を見つけた。
 閉ざされた襖には、梵字の神札が何枚も張られている。間違いない、この部屋に彼女はいるはず。
「……失礼します」
 引き手に手をかけ、戸を開ける。目の前には、しめ縄に大きな紙垂の垂らされた神棚が構えていた。
 その手前にて、瓶子を持ち、榊を整えている女性がふとこちらに振り向く。
「あれ、今日はもう……」
「千寿……待たせたな、俺だ」
「……敦生」
 会いたかったと言いかけて、慌てて止める。咄嗟に血相を変えてこちらに向かってきた彼女は、僕の口を俄然塞ぎ、
「お主で今日が最後じゃな。祈ろう、さぁ、祓い給え、清め給え!」
 例の憑かれたかのような声を上げると、何やら呪文めいたものを唱え室内を震わせる。
「えっ、千……一……」
 訳もわからず動転する僕に、彼女は空いた手で素早く何かを書き、一枚の紙を提示する。
『この部屋は録音されている。私のシナリオ通りに動いて』
 事態を理解した僕がこくんと頷くと、彼女はわずかに目配せし、右の手を離す。
 それから三〇分程、僕たちは祈りの儀式という名の寸劇を演じ切った。儀式が終わると、着替えを済ませた彼女と共に、そっと公民館を後にした。

 裏口から外へと出た僕らは、彼女の伝手で今では使用頻度の低い旧村道を通り、村外れへと歩を向けた。
 いつしか雨は止み、雲間からは陽の光が覗いていた。到着までの間、僕たちは無言で、彼女が先ほど村民から貰ったというビワを、両手で貪りあった。
「……ここが、私がお母さんお父さんと、かつて暮らしていた場所よ……人目も惜しんで、その日暮らしの生活をしていた。もう遥か昔の遠い記憶ね」
 小さな橋を渡り切ると、漸く彼女が口を開く。そこは人気の全く無い、一面吹き曝しの荒野であった。
 以前僕が目にした、彼女の民家は、既に取り壊され、夏の雑草にびっしりと覆われていた。
 跡形も無く消し去られた、かつての村社会の暗部。しかしその呪縛は、今もなお彼女を離さず苦しめている。
「私があなたの町を出てから何年だっけ? ここにいると本当に時間間隔が無くってさ……ってか何で、今さらまた私に会いに来たのよ。この村で暮らすって、どういうこと!?」
 困惑しきった彼女が、すっかり取り乱した表情で僕に尋ねる。その顔はくすんでいながら、昨夜のモノトーンの姿ではなく、かつての彼女の色が微かに宿っていた。
「八年だ……あれから色々あった。千寿、話を聞いてくれるか? あの村で奇跡の偶然が無ければ、彼女たちから貰ったパワーが無ければ……僕は再びここまで来られなかった」
 僕は彼女に話す。この村で初音に引き離されてから、僕の身の回りに起きた出来事全て。山根の監視と裏切り、僕たち家族があの町を離れ、バラバラになったこと。そして大学卒業後、都内の高校で教鞭を執り、天文部の顧問として、この春長野に天体観測に行ったこと。
「その阿多という村で、この村から逃げてきた一人の男性と遭遇した。彼は僕に、この村の実態を、包み隠さず話してくれた」
 近くの大木の下に腰を据えた僕は、小一時間かけて自分の物語を語り終えた。監視に告げた時間を過ぎてしまったな。そう思いながらもその間、人っこ一人この地に姿を見せなかった。
「……あぁ、そうか。石井さん、無事長野へと逃れたのね」
 体育座りの彼女がぽつりと呟く。父の死没の話までは、絶望に打ちひしがれた表情を浮かべていたが、既にそれすら消え、能面のように草むらを見つめている。
「彼から現況を聞いて、僕は千寿が心配で、もう一度救い出しに来た。この村で暮らすなんて、方便だ! 機を見て、僕とここから逃げよう……東京で暮らそう」
 遠くでムクドリの無く声が聞こえる。沈黙が二人を覆う。まるでストップウォッチで時を止められたかのように、長い静寂だった。
 やがて彼女はおもむろに顔を上げる。その顔はすっかり大人びていた。彼女は極めて雑談でもするかのように、
「さっき敦生と食べたビワ。あれ、宮本さんの庭で獲れたビワなんだ。彼、無骨そうに見えて、実は果樹菜園が趣味で。毎年季節の果実を、私におすそ分けしてくれるんだ」
「八年っていったっけ。さすがにそれだけこの村で暮らしていると、村民にも情が湧くよ。誘ってくれて本当に嬉しい。でももう私は、私に祈りを捧げてくれる彼らを置いて、この村から出ていくことは出来ない」
 無機質な声で僕の提案を一蹴する。うん、わかっていた。さすがに八年の長い時間は埋めがたい。彼女がこう答えるのは予想していた。それでも僕は退くことなく、
「……それでも、君は今でも一人ぼっちなんだろ……倉と初音のいいように口寄女を演じて、実の夫ですら、全く心を開いてくれないんだとか」
 確信めいた一言を告げる。瞬間、彼女が心の奥底を見透かされたかのように、顔が強張る。彼女の苦しむ顔は見たくなかった。それでも僕は口を止めることなく、
「君は初めて会った日から、ずっと、重荷を背負ったままだ。今度こそ、僕が幸せにして見せる! 子供がいるんだってね。いいよ、二人で彼の成長を見守っていこう! だから、これが最後のチャンスだ……明日の祭りの前に……お願い。僕たちも一緒に――」
「ごめん。やっぱり無理」
 僕の想いは届かなかった。彼女は目じりに涙を浮かべながらも、その瞳には僕の姿はとうに映っておらず、
「もし東京に着く前に彼らに捕まったら、智明共々殺されてしまう。私は彼を失うリスクはとても冒せない。うん、私は彼さえいれば、大丈夫」
 可愛い我が子を慈しむべく、はっきりと拒絶の意思を示した。
「そうか……わかった。千寿が村に居続けることを望むなら、僕はその意思を尊重する」
 決意を固めた一人の母親を相手に、僕はこれ以上の説得を諦めるしかなかった。あくまで彼女の幸せが第一。気づけば僕は、自分の未来が絶望しかないことに、重く打ちひしがれるようでもあった。
「うん、ありがとう……だからせめて、敦生だけでも、早く東京に戻って! この先を進めば石井夫妻が、この村から逃げ出した山道がある。そこを伝って帰って! 今からならまだ間に合う」
「いや……もう後には引けないよ……僕はこの村で暮らす道を選ぶ。さすがに契ってしまった婚約者を捨て逃げ出す程、僕は人でなしではないよ」
 僕は全てを捨て、この村で第二の人生を歩む覚悟を決める。既に天涯孤独の身。一瞬僕に勇気をくれた数名の顔が思い浮かんだが、彼女らの太陽のような笑みはたちどころに頭から消えた。
 でも、と言いかけ彼女が口ごもる。不意に湿った涼風がそよぎ、彼女の滑らかな長髪を妖しくたなびかせる。視界を上げれば、いつしか空は三度曇天へと包まれていた。その時僕は、ふと思い出したように、
「いけない、傘を置き忘れてきた!」
 人生の舵取りから一転、目先の些末に対処するべく、慌てて立ち上がる。
「あっ、私もだ!」
 彼女も事態に気づいたかのように、声を上げる。
 鉛色の空から、一滴の雫が垂れる。まずい、急がねば。大丈夫、走れば一五分程で帰って来られるだろう。
「すぐに戻ってくるから! そこなら雨風凌げるから少し待っていて!」
 慌てて元来た道を駆ける。その時、後ろで彼女が何か思い出したかのように、私が行く! と声を荒げた。
 だが僕は足を止めることなく、そのままぽつぽつと雨降り注ぐ旧村道を走る。果たして一〇分足らずで、人気のない公民館へと到着した。
「えぇっと、傘、傘……」
 入口隅の傘立てから、先程の破れかけの傘を手にする。後は彼女の分。取り残された数本の和傘は皆ひん曲がっており、どれが彼女の傘か皆目見当つかなかった。
「まぁ、いいや。取り急ぎまずは、使えそうなものを」
 その中の一本を見繕った時、陰からちいさな子供用傘が姿を現した。手元は下地がむき出しになっており、石突きは当に折れ千切れている。
 見るからにボロボロの状態ではあるが、どこか見覚えがあり、何の気なしにそれを手にする。骨がすっかり錆びているのか、開くのに随分と苦労した。やがて傘が花開いた時、僕はその彩に、思わず驚嘆の声が漏れた。
「なんで、そんな……」
 それはかつて、僕と祖父とのお墓参り時に彼女が持参していた、水玉の傘であった。つぎはぎだらけのシート上に、元の柄の面影はほぼ残っていなかった。それでも歪に浮かび上がった多種多様な水玉は、阿多で見た星座のように、僕の心を鷲掴みにした。
「敦生……」
 背後からか細い彼女の声が聞こえる。振り返ると雨水に濡れた彼女が、ばつの悪そうな顔でこちらを見つめていた。
 瞬間僕は、彼女を抱きしめていた。運命の歯車を僕は呪う。彼女は一瞬躊躇いながらも、やがて優しく僕の背中を包み返してくれた。
 それからどちらともなく、僕たちはそれぞれの住処へと歩を向けた。途中まで、彼女の傘越しに、互いの手をしっかりと握りしめながら。
 帰宅すると時間オーバーだと監視からこってり絞られた。再び閉ざされた檻の中の巣窟。着替えを済ませ床に座ると、あの頃と同じ彼女の残り香が暫く僕を惑わした。
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