三章七節 証言(前) 

文字数 2,808文字

    15

 翌朝、旅館の朝食を一人済ませた僕は、再び靄井山近辺の田畑を散策していた。田はまだ代かきの段階ではあるが、ビニールハウス内には早くも春野菜がたわわに実っている。
 畦道を歩き、僕は腕時計を確認する。時刻は午前九時。帰りの時間を考慮しても、残り一時間半程で自身の中でけりをつけたい。
 
 明け方件の夢を見たせいか、僕はどうしても昨晩の話の真相が気になった。
 あの村とは違うと言ってほしい、彼女とは一切無関係と自分を納得させたい。その思いが募る一心で、僕は起床後半ば衝動的に宿を飛び出した。
 出発直前、部員の部屋をちらりと覗く。あれから何時まで遊んでいたのか、一面ボードゲームをまき散らし、彼らはその片隅でスヤスヤ眠りこけていた。
 野暮用で出ている、一一時には戻る。そうメモ書きを入口に残し、僕はそっと部屋を後にした。
 道の端、丁度昨晩の登山口まで来て、ふぅと草むらに腰を下ろす。昨夜は暗くてよく見えなかったが、確かにこの辺りは一面田畑で民家は見当たらない。ぽつぽつと車が停車していることからも、村人は毎日麓とここを往復しているのだろう。
 持参した水筒のお茶で息を入れる。今のところまだ村人の姿は見かけていない。時間内に見つからなければそれもまた運命だ。それでも僕は、あの〝石井〟という人間をきっと見つけ出す。
「よし、再び元来た道を戻るか」
 気合をつけ、ジャージに付いた雑草を振り払った、その時であった。
「あれ、先生。またこんなとこまで、一体どうなさったんですか」
 朴訥とした、それでいて聞き覚えのある声が耳に響いた。
 振り返り、僕は仰天した。視線の先には例のハンティング帽姿、僕の追い求めていた男石井が、草刈り機片手に唖然とした顔でこちらを見つめていた。

 軽トラック内は重々しい空気に包まれていた。彼は自宅に帰ると言っていたが、後ろに搭載した草刈り機で僕を処分する可能性だって大いにありえる。
「いやぁ本当に、世間は広いようで狭いもんだ……まさか先生が、あの悪党〝清水敦生〟だったなんて」
 彼はそう独り言ち、高架下の川のせせらぎをじっと見つめる。その間から、手元の加熱式煙草の煙がゆっくりと吐き出されていく。
 
「石井さんですよね。昨夜は大変ご迷惑をおかけしました。本日は私、あなたに御用がありまして」
 探していた男が、突然現れたことに、自分でも信じられず、つい言葉が上ずってしまう。
 震える声に彼は怪訝な顔を浮かべる。だが昨晩の話の続きが聞きたいと頼み込むと、途端に苦虫を噛み潰したような表情で、
「いや、あれは忘れてくんろ。いくら先生が日本史の教師とはいえ、簡単に人様に語る話じゃない」
 取り付く島もないとばかりにはっきり告げ、スタスタ自分の畑へと歩き始める。
「しかしせめて、そこに奇妙な風習があったかどうかだけでも教えてください! 口寄女と呼ばれる村を取り仕切る、紫の衣装を身に纏った女性は――」
「先生……私は既にこの地で新しい生活を始めているのです。前の村のことは極力頭から消し去りたい……すいませんが、どうかこの通り」
 申し訳なさげに、それでいてはっきりと拒絶を示し、再び僕に背を向ける。
 遠ざかっていく生き証人。あぁせっかく出会えたのに、僕は彼からろくに話も聞き出せず、東京に戻ればならないのか。
「……その村、かつて清水という人間が災いをもたらしませんでしたか」
 脳裏を掠めた一つの仮説が、無意識に口から漏れ出る。
「え? 今なん……」
 驚いて振り返る彼の瞳の揺らぎを見逃さなかった。僕は畳みかけるように、
「私がその清水敦生です……身分証明書、これが証拠です」
 手元の財布から運転免許証を高らかに提示した。
「っ! なんであんたがそれを……って、いや、そんなことがあるはず――」
 突如過去の記憶をえぐり出され、それを否定せんとばかりに、彼は鬼の形相で近づき、免許証を凝視する。
「嘘……まさか、しかし――」
 彼はこれが現実かとばかりに僕に瞠目する。僕が無言で頷くと、全く信じられないといった表情で地面に頽れる。
 万が一の可能性が見事的中していたことに自分でも愕然としている。しかしそれをおくびにも出さず、努めて冷静な声を意識し、
「僕も驚いています。まさか部活の合宿先で、あの村の関係者に出会えるなんて……石井さん、改めてあの村の現状を教えてください。それだけで、それだけで僕は十分なのです!」
 辺りも憚らず必死に頭を下げる。やがて彼はゆっくり立ち上がり、声を押し殺し、
「俺の知っている情報を伝える、ただそれだけでいいんだな」
 確かめるように僕をじっと見据えた。
 僕が頷くと彼は気難しい顔で、道端の軽トラに僕を促した。緊張した面持ちでシートの禿げた助手席へと乗り込む。眼前の田畑ではいつしか農作業に勤しむ阿多の村人であふれ返っていた。

 到着したのは、一昨日の観測会会場道中にある廃れた一軒家であった。彼は妻に客が来た旨を伝えると、僕を玄関脇の小さな客間へと案内した。
「さて、どこから話せば良いか」
 すっかり色の剥げたソファに腰を下ろし、思案顔で再び加熱式煙草を咥える。彼の背後には、部屋に不釣り合いな見事な魚拓が飾られている。あれは確かヤマメか。
 僕は時計を確認する。時刻は間もなく一〇時を迎えようとしている。残された時間はあまりない。僕は積もる雑談も避け、そもそもなぜ、あの村を逃げ出したのか単刀直入に尋ねた。
「そっか、まぁ、そこから話すのが筋だよな。……思えば俺は幼い頃からひねくれたところがあって、親や親戚に何度も口寄女のところに連れて行かれたもんだよ」
 当時を回顧するようにそっと天井を見上げる。とその時、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
 彼が返事をすると、エプロン姿の女性が茶菓子を乗せた盆を抱え、こちらへ歩み寄ってきた。
「あぁ、妻の小百合です。こちらは、えっと〝水田〟先生、一昨日の天体観測でこの阿智に来ているそうだ」
「こんにちは、水田と申します。しばしご主人からお時間を頂いております」
 ぺこんとお辞儀をすると、彼女も無言で礼を返す。
「あとは俺の方でやっておくから、下がっておくれ。あとこれから大事な話をするから、くれぐれもこちらには近づかぬよう」
 彼が小さく目配せをすると、彼女は理解したとばかりに頷き、そっと部屋を後にする。
「いや不愛想な態度で、申し訳ない。昔は随分明るい表情を見せてはいたんだけど、あの時の事件がきっかけですっかり心を閉ざしてしまい」
「事件?」
 僕が復唱すると彼は露骨に顔をゆがめる。「本当は思い出すのも忌々しいが、でも約束だからな。俺たちが村を飛び出したのもそれが決定打よ」
 そう述べ彼は湯気の上がった番茶を口にする。
「しかし順番的には先ほどの生い立ちから語った方が自然か……随分と長い話になるかもしれない。まぁ饅頭でもかじりながら、どうか気楽に聞いてくれ」
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