一章十節 離別(前)

文字数 2,598文字

    6

 祖父の葬儀から二週間。再び日常へと戻った僕たちは、程なく夏休みへと突入した。
「敦生、講座の帰り、お父さんの事務所にこれ置いてきてもらえる? 大事な書類みたいなんだけど、あの人昨日持って帰ったまま、忘れていったみたいで」
「あー、昨日親父帰ってきたんだ。全く会ってないけど、どう? 選挙は二週間後だっけ。順調そうなの?」
 僕の問いかけに、母は困惑した顔を浮かべる。今回はさすがに、再選は難しいか。そう実感した僕は、黙って父への届け物を受け取った。
「それじゃ、少し早いけど行ってくるよ」
「はいね。今日も暑いから、体調には気をつけて」
 玄関まで見送ってくれた母に礼を述べ、僕は既に陽炎揺らめくバス停までの道のりを、気だるげな足取りで向かった。
「お袋も随分、暇そうだな」
 母が専業主婦になったのは、葬儀を終えた翌日のことである。
「親父は死んで、敦生もこれから勉強で忙しくなる。今まではお互い共働きで何とかやっていけたが、これを機に家事の方はお前に任せたい」
 父の言葉に、母は黙って従った。元来看護の仕事にそんな思い入れは無かったようだが、根が働くのが好きなのもあってか、家に入ってから幾分丸くなった代わりに覇気が随分と減った。
 そんなことを考えているうち、目的のバス停に、待ち合わせの相手が既に姿を見せていた。
「おっ、珍しい。俺より早く来てるなんて、初めてじゃない」
「いや、さっきまで買い物してたんだけど、予定より早く終わってね。ってか敦生のリュックサック、パンパンじゃん。あんたテキスト以外に何を持ってきたのよ」
 こう述べる富田紗英に、僕はバスに乗り込むと、今日の一件を気怠げな顔で説明した。
 夏休みが始まると、僕は早々に親から夏期講習行きを、申し付けられた。
 高一の夏休みなのに、勉強漬けか。憂鬱な思いではあったが、たまたま苦手な英語を克服するべく、受講していた紗英と鉢合わせ。以降同じ受講日はこうして二人で行き帰りを共にするようになった。
 
「千寿ちゃん、最近どうなの? 引越し作業は順調そう?」
 退屈な講義が終わり、紗英に今日のポイントを解説した後、彼女が心配そうに千寿の様子を尋ねた。
「あぁ、部活の合間に熱心に取り組んでいるよ。夏休みの宿題が無いからむしろ有難いーって、本人は言っているけど、割とバタバタしている感はある」
 僕の言葉に、紗英はそっかと呟いた。
 親父の早急な計らいにより、彼女の退学手続きは滞りなく済んだ。後は引越し作業を進めるだけ。しかしながら彼女たっての希望で、この一年半打ち込んだ吹奏楽は仲間と完遂したいという思いの下、来週の大会に向け、今は練習に励んでいる。
「俺も時々手伝ったりしているけど、母親の目もあるしね……それじゃ俺はこの辺で! 親父の事務所に寄るから、今日はお先に失礼するよ」
「そこは厳しいところだよね……うん、お疲れ! 次は来週の月曜日だっけ。富山の叔母さんの報告、楽しみにしてる」
 不敵な笑みを浮かべる紗英に、僕は苦笑混じりに背を向けた。
 
 この休日に富山の叔母が挨拶に来る。そう千寿が話したのは、三日前の夕食後のことである。以前母親が、父親の予定をしきりに気にしていたのはこのためか。一人合点のいった僕に、彼女は出来れば敦生も同席してほしいと、熱の篭った視線で訴えた。
 翌日、その旨を母親に伝えると、予期に反しあっさり承諾をもらった。なおその日講習が一つ控えていたが、英語であったため事情を話し、紗英に板書をお願いした。
「千寿を過去に虐待していた親族。本当にもう大丈夫なんだろうか」
 そう考えている間もなく、丁度バスが最寄りのバス停へと到着した。僕は慌てて降車し、大粒の汗を垂らしながら、父の事務所へと急いだ。
「あれ、誰もいない」
 クーラーのガンガン効いた室内に足を踏み入れると、丁度外回りの時間なのか、中はもぬけの殻であった。
 途方に暮れながらも、とりあえず父のデスクへ向かう。すると丁度秘書の山根が戻って来て、
「あれ、敦生さん。こちらに来るなんて珍しい。お父様なら、今日は終日後援者回りですよ」
「あー、山根さん。丁度よかった、父が書類を家に忘れていったみたいで。これ、渡しておいてもらえます?」
 書類の入った封筒を渡すと、彼は畏まりましたと、恭しくそれを受け取った。
「それじゃ、僕はこれで。引き続き、父をよろしく頼みます」
 礼をして踵を返すと、背後でねっとりした声で一言、
「もちろんですとも。今回は何故か、苦戦を強いられていますが、どんな立場になられましても、私はお父様を、全面的にバックアップしていきますよ」
 驚いて振り向くと、山根は初めて見せる、何か含んだ不敵な笑みを浮かべていた。
 今回の父の苦戦。彼が一枚噛んでいるのか。そう直感した僕ではあるが、長年父を支え続けている右腕を問い質す訳にもいかず、僕は再び会釈をすると、うすら寒い思いで事務所を後にした。

 その日は朝から灼熱の太陽が顔を覗かせ、テレビのニュースはこの夏一番の暑さだと騒ぎ立てていた。
 そんな猛暑の陰りも見え始めた夕方、定刻通り千寿の叔母が家へと到着した。
「皆様、はじめまして。千寿の叔母の、石井初音と申します。この度は一年半程、うちの千寿が、大変ご厄介になりました」
 タクシーから姿を現したレーススカート姿の彼女は、門前にて待ち構える僕たちに、深々と頭を下げた。
「こちらこそ、わざわざ富山からご足労いただき、ありがとうございました。長らくご体調を崩されていたとのことですが、道中ご加減の方はいかがでしたか」
 痩せ型の小じわの目立つ顔に、大きな赤縁眼鏡が随分と浮いている。そんな印象を抱かせた彼女は、先程家に帰って来たばかりの父と二三言葉を交わすと、最近手入れされた庭を一瞥し、我が家へ足を踏み入れた。
「千寿も、随分久しぶりねー。この一年半で、立派に成長して」
 家に入る直前、おもむろに彼女は後ろを振り向き、僕の隣に控える千寿に、満面の笑みを浮かべた。
「ええ……初音叔母様もお元気そうで。体調も戻られたようで、安心しました」
 彼女の笑みに合わせるように、優しい微笑を浮かべ、淡々と応える彼女。なんだ、ひょっとすると本当に叔母は改心しているのかもしれない。そう実感した僕は、ふと千寿の左手を見やると、その小さな拳がかすかに震えていることに気づき、小さな安堵は瞬く間に氷解した。
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