三章一節 七年後、都内

文字数 3,539文字

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「先生、この資料から読み取れる文化的背景を述べなさいという問いなんですが」
 大きな山場である共通テストを無事終え、自由登校となった校内。人もまばらとなった三年棟の第二社会科室に、自身が受け持つ生徒の林が尋ねに来た。
「ん?……あぁ、これは太平記だな。即ち南北朝文化を述べれば良いから。さぁ、何を記す?」
 眉を潜めながらいくつかの単語を挙げ連ねる彼に、肯定の言葉をかける。すると林はぱぁっと明るい顔を浮かべ、
「ありがとうございます! では今述べた単語を鍵に、文章を作ってみたいと思います」
 ぺこんとすっかり伸び切った頭髪を自身に向けると、いそいそと扉に手をかける。
「おー、頑張れ。ところで林、大学に入っても、野球は続けるつもりなのか?」
 難関国公立の赤本を携える彼の左手首をちらりと見ながら、ふと言葉を投げかける。
「いや、遊び程度なら続けるかもしれませんが……それより映画研究会に入会して、映画作りをやってみたいんです!」
 一瞬曇った表情を浮かべるも、即座に最近見つけた新たな世界への挑戦に、燦然と目を輝かせる。
「そうか、お前映画好きだもんな……いいんじゃない。あそこの大学、大きなサークルもあるようだし。目標に向かって、ラストスパート、頑張れよ!」
 励ましの言葉をかけると、一層気合が入ったのか、部活で培った大きなお礼を述べ、退室していく。最近まで抱いていた進路の不安は、どうやら解消されたようだ。
 教師も生徒も出払った室内。ふと時計を見やると一八時の会議までまだ多少の時間がある。さてこの中途半端な時間をどう過ごそうかとやりかけの授業計画書を止め、久しぶりに地学研究室へと足を向けることにした。
「最近ご無沙汰の天文部に、ちょいと顔でも出すか」
 窓から覗く、高層ビルの合間にうっすら夕陽が映える。自然が人口に圧倒された世界。
 そんな学び舎にすっかり慣れ親しんだ僕は、出席簿片手にのんびり部室棟へと向かった。

 業務日報を書き終え、退勤ボタンを押す。時刻は一九時を少し回ったところだ。年明け以降激務が続いた分、今日は久々に早く帰れるな。んーっと伸びをし、すっかりしわの目立ち始めたブリーフケースに手をかける。
「お疲れさまでした。お先に失礼します」
 まばらに残業を続ける先輩教師に挨拶をして、出口へと向かう。その時丁度給湯室から、同期の松岡とばったり出くわす。
「帰り? 今日は早いじゃん」
「ここんところ共通テストの対応にずっと追われていたから。来週も諸々とやらなきゃならないことがあるし、今日は英気を養うよ。そっちの調子は?」
 珈琲片手にジャージ姿の、制服を着せれば生徒となんら遜色ない童顔娘に、からかい口調で尋ねる。
「一年のクラスは特にだけど、部活が来週春季大会で大変よ~。おまけに明後日期日の資料も仕上げなきゃだし! まぁ暫くは、早く帰っても、特にやることはないんだけど」
「へぇ。そういや、最近彼氏とはどうよ? 暫く残業続いているみたいだけど、ちゃんと会ってはいるのか?」
 少し声を潜め、以前飲みの席で話題にした私情を尋ねる。途端に彼女は、青春真っ盛りの乙女のように、はぁとため息を漏らし、
「別れた。君みたいなずぼらな人は、やっぱり僕には合わないって……あぁ、もう! 続きは今度の飲みで! この前あんたの話を聞いてあげたんだから、今度は私の番! ずぼらって何よ。あいつの方が百倍もだらしないんだから!」
 そう吐き捨てると、その時のことを思い出したのか顔を真っ赤にして、自席へと去って行く。
「あー、ゆみちゃん、今日のテニス、珍しく私たちと混じって打ってたの。つまりは、そういうことだったんだ」
 隣で、事の真相に気づき、やれやれと呟くテニス部生徒に、教務主任はただただ苦笑いを浮かべるだけであった。

 新宿で中央線に乗り換え、各駅数駅で下車。駅前の繁華街から少し歩き、小さな公園の裏手を抜けると、ひっそり年季の入ったアパートが姿を現す。
 部屋は広く日当たりは良いものの、やはり駅近だけあり外はうるさい。電車の通過音をBGMに、室内に広がる段ボールの山に、若干部屋決めを急いたのを後悔する。
「……開封作業は、また今度だ」
 コンビニ弁当をミニ机に置き、疲れた体でテレビを点ける。
 即座に画面に映ったのは、満開の菜の花であった。春の訪れの房総半島と題し、最近流行りの女優と芸人が列車旅に興じている。
 すかさず僕はチャンネルを他局に切り替える。と同時にずぎりと鈍い痛みが頭を襲う。くそっ、まだか。七年経った今でも、僕は罪に苛まれ続けねばならないのか。
 久々に見た黄金色の集合体が、脳内を埋めつくす。それはまるで一生逃れられないとばかりに、あの時の悪夢を僕に蘇らせる。

「あぁなんで、そんなまさか」
 敵味方議員問わず、どよめきが起こる。父と正面相対する形で、質疑席には、彼を長年支え続けたブレーンが、姿を現す。
 動揺する議場にて、一人ゆるぎない瞳で佇む彼は、一本の動画を議長に提出すると、
「これが彼の息子、清水敦生氏が富山にいる一部始終を捉えた映像です。肝心の箇所は残念ながらございませんが。しかし調べていく過程で、それとは別に、千寿さんのとある事実が発覚しました」
 あぁ、ついにたどり着いてしまったか。瞬間、事の次第に気づいた父が、何事かわめき散らす。しかし彼の言葉は、僕の耳には一切入ってこなかった。
 いつから家族の秘密に勘付き始めたのか。富山行きのどのタイミングで僕を尾けていたのか。もはやそんなこと、どうでもよかった。  
 やがて山根が、予想通りの真実を短く告げる。
 即座に場内は大混乱に陥った。清水議員ともあろう方が、嘘でしょ!? てめぇ、そんな出自の血を持つ人間が、俺たちの議員だったのかよ! 傍聴人は皆揃って、父に阿鼻叫喚を降り注ぐ。
 これは現実なのか。一瞬議場の父と目が会う。そこにはこの混乱を解決してほしいという、救いの眼差しがあったような気がする。だが僕はそれに応えられる訳もなく、黙って町役場を後にした。
 天気は既に回復し、辺りは春らしいぽかぽか陽気に包まれていた。古びた医院の隣地、一面露を浮かばせた菜の花畑は、眩しいぐらいの陽光を、これ見よがしに僕へと突き付けてきた。

 僕たち家族が逃げるようにこの町を去ったのは、それから間もなくのことである。清水本家は伊豆の叔父さんが継いだ。僕らは親戚筋にも見放される形で、母方の知り合いの伝手を頼り山梨へと越した。
 半年後、父が病でこの世を去った。山梨に来てから生きる希望を失い、半ば亡霊のように過ごし、程なく感染症に罹患した。それでも死の間際まで、彼は一度たりとも僕を責めたりはしなかった。
 ただ病床に着く前、彼は時折自身の詰めの甘さを嘆くように、新居の縁側で泣いていた。
 俺は何を間違えたのか、一人呻くように漏らした悔恨が、暫く僕の心を苦しめた。

 父が死ぬと母は山梨で出会った銀行員と再婚をした。父と比し彼女は、お前が私たちの人生を狂わせたんだとばかりに、僕に幾度も暴力を振るった。
 その一方彼女は、高校卒業と大学入学までは資金援助等、親の務めをしっかり果たしてくれた。
「なにかあったら相談に来な。たとえ疫病神でも、あんたは私の息子なんだから」
 上京時、久しぶりに自宅で一夜を共にした彼女の言葉に、僕は大粒の涙が止まらなかった。

 親からの期待という名の重しはすっかり解放されたが、それでも僕は熱心に勉強し続けた。塾にも通わず、東大を現役で合格し、大学四年次の教員採用試験は見事合格。東大にも行ってなぜ教員にという周囲の声もよそに、僕は昨春、晴れて都内の公立高校に常勤講師として採用された。

 コロコロッ
 先ほどチャンネルを変えた弾みで、倒れたペットボトルが地面へ転がり落ちる。途端に我に返り、慌てて散乱した地面からそれを拾い上げる。その拍子に、目前の小物入れの中から一箱の小さなネイルセットが目につく。
「あれ、完全に処分したと思ったんだけど。今度は千洋が、俺を苦しめる番か」
 ぽつりと呟くと、それを無造作にゴミ箱へ放り投げた。
 千洋とは大学の教育サークルで出会い、付き合い始めた元カノである。つい先日まで総武線沿線で同棲を続けていたが、
「敦生、ごめん。私新たな彼氏が出来たの」
 年明け頃から家を空ける機会が増え、そして先月末、久方ぶりに帰宅した彼女は、突然別れを突き付けた。
「年末頃から、暫く家に帰れてなかったんでしょ。時期も時期だし、彼女も人肌恋しくなったんじゃないの」
 松岡にはこう慰めてもらったが、やはりショックは大きかった。それから早々に同棲していたアパートを解約し、心機一転、今月から新たな居住地へと移り始めた。
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