二章一節 二人の幼馴染(前)

文字数 3,031文字

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 いつの間にか外では、カナカナ…と蝉の鳴く声が聞こえる。あっという間に夏も終わりだ。半袖のポロシャツでは、さすがに肌寒く感じてしまう夕暮れ時。最後の夏期講習が終わると、僕はこの日も紗英に今回のポイントを復習させた。
「だから、stopの進行形はping。子音の前に母音が来る動詞は、ingの前に最後の子音が……」
「なるほどね……ありがとう、敦生。ってか最近は九〇分の講義より、その後の敦生の説明目当てで来ている感はある」
 珍しくお礼の言葉を述べ出した彼女に、雨でも降るんじゃないかと外へ視線を向ける。だがその途上彼女の鞄から、夏休みの課題が顔を覗かせ、全てを理解した。視線を戻すと、案の定彼女は罰の悪そうに苦笑いを浮かべ、
「別に課題が終わっていないわけじゃないんだから。ただ明けの実力テストに向け、二三箇所、教えて欲しいところがあるっていうか」
「……構わないけど。でも一時間だけだぞ。一九時過ぎのバスを逃すと、さすがに遅くなるし」
 改めて深く椅子に腰かけると、紗英は嬉々とした声で、感謝の言葉を告げた。そんな態度に、内心まんざらでもない様子で、漸く自身の気持ちが平静を取り戻してきたことを実感した。
 千寿が去って一週間、僕は茫然自失の体で日々を過ごした。部活の卓球はサボり続け(結局それ以後戻ることはなかった)、夏期講習も暫く行けず、心配した紗英から何度も連絡が入った。
 普通なら激怒する親も、さすがに今回は口出しをしてはこなかった。それでも盆明け辺りから徐々に危機感を抱き始めた僕は、何とか気持ちを奮い立たせ、翌日の夏期講習に出席した。
 その帰り際、紗英に千寿が去ったことを告げると、彼女は口を手で覆い、むせび泣いた。それでも僕を慰めてきた彼女に、そろそろ自分も吹っ切らなければと覚悟を決め、心の内を封印し、再び日常を送るよう努めた。
「だから、これらは凄く大事、って、今何時……げっ、一九時、過ぎてるじゃねぇか!」
 紗英の特に苦手とする文法を覚えさせ、前方の時計を見やると無残にも一九時を少し回っていた。しまった、つい熱中してしまった。気づけば室内は二人だけとなっており、隣の教室からは夜間の授業が始まっている。
「え?……あー、ごめん敦生。私もつい夢中になってた」
 同じく後ろを振り向いた紗英が、申し訳なさげに僕に謝る。しょうがない、どう悔いたって時は戻ってこないのだ。だったら今の状況で、一番ベストな選択は。
「次のバスは二〇時半。よし、他にわからない箇所はないか。こうなったら残り一時間、お前の苦手を徹底的に潰していく」
 急にスイッチの入った僕に、紗英は明らかに嫌そうな顔を浮かべた。しかし自分から言い出した手前、特に断る訳にもいかず。
 こうして次のバスが来るまで、僕たちは一心不乱に、紗英の課題に向き合い続けた。

「ごめんね、私のせいで、今日こんなに遅くなって。ありがとう。敦生のおかげで、明けのテストは良い点が取れそうだよ」
 僕たちだけを乗せたバスが最寄りのバス停に止まると、いたく眠たげな運転手に定期を提示し、歩道へと舞い降りた。
 共に最寄りのバス停といっても、紗英はこの後直進で僕は右の道。二人連れ添って歩くことは無く、毎回ここで別れている。
「いやいや俺の方こそ、急に熱が入っちゃって……でも、地獄と思っていた夏期講習も、紗英と一緒に受けたおかげか、案外悪くなかったなー。それじゃ、また。外海でも誘って、角田屋にでも行こうな」
 ここ最近、毎日のように顔を合わせていた紗英とも、夏休みが明ければ、会う機会はぐんと減る。
 お互い名残惜しそうに、暫く歩みを止めていたが、ふと紗英が小さな声で、
「でも、今日の敦生見て、少し安心したかな。千寿ちゃんがいなくなってから、本当に生気が無かったけど、今日はいつもの、昔の敦生が戻ったみたいだった」
「……いい加減、引きずっていてもしょうがないからな」
 僕の言葉に彼女はうんと小さく頷くと、満足したのか、またねと告げ踵を返した。

 右の道へと逸れ、暫く夜道を歩いていると、丁度先日取り壊された無人家の草むらから、秋の虫が爽やかな音色を奏でていた。
 その時、闇夜の後方から、眩い光が僕を捉えた。こんな時間に誰だ。光は徐々に大きくなり、慌てて僕が脇道に寄ると、
「あれ、もしかして敦生? うわ、こんな夜中に珍しい。あー、さては学校か塾の帰りか」
 お馴染みの防具と制汗剤の入り混じった匂いを漂わせた外海芳樹が、心底驚いた表情で、こちらを見つめていた。

 外海は自転車を降りると、僕の隣に歩を並べた。夏休みの宿題がまだ終わってないだの、今日は大会があって疲れただの、僕の相槌もそこそこ、弾丸トークを繰り出すのは相変わらずだ。
「後一〇秒粘れば、引き分けだったのに。黒川の奴、油断しやがって。まぁ一本負けした俺が、言えた義理ではないが」
 外海は中学を卒業すると、地元でも剣道の盛んな高校へ進学を果たした。以前部員のレベルが高く、補欠に甘んじている自分が悔しいと述べていたが、どうやらレギュラー獲得にまで成長したようだ。
 一通り彼はしゃべり終えると、満足したのか再び口を閉ざした。それに僕は特に気にするでもなく、再び秋の虫音を楽しんでいると、
「千寿ちゃん、富山に帰ったんだってな……先日たまたま叔母さんに会って、話を聞かせてもらった」
 突然声のトーンを下げ、外海は僕の心に仕舞った事柄をほじくり出してきた。
「……そうだよ、でももう、全て終わったことだ」
 僕がむすっとこう答えると、外海は慌てて僕を励ますような口調で、
「そっか。まー、元々の取り決めだったしな。敦生も暫く寂しいだろうけど、彼女のことは早く忘れろ、なっ?」
 気の毒そうに僕の肩をポンっと叩いた。彼が、悪気がなく励ましてくれているのは理解している。理解している、けど、それでも僕の心には、彼の言葉を受け入れるだけの余裕はまだ無かった。
「……られるかよ」
「ん?」
 外海が心配げな目で僕を覗き込む。そんな彼からの視線を避け、澄んだ夜の空気を一心に吸い込むと、
「忘れられるかよ! 取り決め、周りの意見、そんなもん知るか! 俺は彼女を犠牲に、本当の気持ちに気付けていなかった……あの時俺が、千寿を守っていれば。あの時叔母を止めていたら――」
 心の内に閉まった思いを一気に吐き出してしまう。僕は外海がいるのも忘れ、自身の本音、懺悔を道一杯に叫んだ。
「敦生……お前」
 漸く見た外海の顔には、驚愕の表情が浮かんでいた。そこには心配や憐憫さは一欠片も無く、ただただ驚きと焦慮の顔。
「まー……すぐに忘れられるわけもないよな! うん、吐き出したい気持ちもわかる……それじゃ、俺はこの辺で! 早く帰って課題をやらねば」
 こう述べると、突然僕から逃げるように、外海は自転車に飛び乗り夜道を去って行った。
 そんな全力疾走する彼の姿を、僕は無表情で見つめる。
 一年程前だろうか、角田屋にて千寿の出自を告げてから、外海は彼女とは(あくまで露骨ではないものの)距離を置くようになった。
 当然のこととはいえ、信頼していた親友だけに、僕としては正直辛かった。その後、受験勉強や祖父への見舞いと、高校進学まで僕たち四人の交流は暫く続いたが、彼が彼女に関心を向けることは一切無かった。
 再び歩き出すと、不意にむわっとする風が周囲にたなびいた。それに呼応するかのように、道端に佇む夏草の音が、僕の耳に不気味に残った。
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