一章三節 あざ (後)

文字数 1,763文字

 千寿が来て最初の一週間。僕はこれほどまでに家にいるのが苦痛な時間は、後にも先にも無かった。
「千寿さん、ひじきの煮付け取ってあげましょうか」
「……大丈夫です」
「そう……」
 空気の澱んだ食卓。祖父の命の下、夕食は必ず家族集まって食べる、が清水家の決まりになっている。
 初めの内は父母も、そっけない態度ながら、夕飯に同席してくれた。
 しかし彼女が自分たちと、決定的に反りが合わないことを悟った彼らは、三日目以降、やれ仕事だパートだと口実をつけ、料理の用意こそすれ、夜は帰って来なくなった。
「千寿、ひじきは体に良いんじゃぞ。美和さんも、料理の腕に関してはピカイチじゃから、きちんと食べなさい。ほれ、山盛り一杯」
 こう述べ、祖父はチキン南蛮の盛られた彼女のお皿に、大量のひじきをよそい入れた。
 彼女は黙ってそのお皿を見つめ、感謝の語を述べた後、淡々と口に運んでいった。
「ところで敦生。正二と美和は今日も遅いのか?」
「うん、親父は議員仲間の人と一杯。母さんはナースステーションの遅番継続だってさ」
「そうか、仕事か。それにしてもこれで三日連続じゃ。早く戻って一緒に食事しようという気概が、あやつらからは感じられない」
 不満げに愚痴を零しながら味噌汁を啜る。祖父は基本、物事に寛容な性格ではあるが、なぜか食事のしきたりだけは、非常にうるさい。先代からの教えを忠実に守っているのであろうが、僕にとっては彼の理論は時代錯誤の悪弊としか思えない。

 祖父が書斎に戻った後、僕は一人食卓の後片付けに取り掛かった。三人分の食器を棚に戻し、料理はラップをし冷蔵庫へ。流しの棚のネジがゆるんでいるな。そう思っていた矢先、食卓の扉がすっと開き、千寿がひょこんと顔を覗かせた。
「敦生さん。もしよろしければ、私も片付け手伝いますか」
「ん、あ、あぁ。それじゃお願いしてもいいかい」
 僕の返事に、彼女は遠慮げに洗い場へ近寄ると、何をしましょうと上目遣いに僕に尋ねる。
「テーブル拭いてくれるかな。これがふきん」
 これまで食事後は、颯爽と部屋に戻っていたため、突然の申し出に少々面食らってしまう。
 動揺する僕の言葉も意に介さず、彼女はこくんと頷き、実に手馴れた手つきで食卓を綺麗にしてしまう。
「終わりました。他にもやれることがあったら」
「ありがとう、他は俺がやるから大丈夫だよ……ねぇ、もしかして千寿さん、家事は結構得意なの?」
 僕の何気ない一言に、彼女は少し躊躇いながらも特に隠すわけではなく、
「はい。前の家では、朝から晩まで毎日していましたからね。今でも、何か動いていないと、正直不安な感があるんですよ」
「そうなんだ……」
 彼女の告げた悲しい現実に、かけるべき言葉が見つからなかった。彼女も特段気にするわけでもなく、黙ってふきんを流しでゆすぐ。
 あたりに響き渡る水流音。そこに一瞬、カラッと、乾いた小さな音が交じった。それは即座に、鈍い音へと切り替わり、
「え? きゃっ!」
「あ、危ない!」
 流しの棚のネジが外れ、上から容器が彼女めがけて落ちてきた。瞬間僕は彼女の腕を自身の方へ引っ張っていた。
 幸い落ちた容器は、プラスチックの保存箱で、コロコロっと音を立てながら、ゆっくりと流しの先へと転がっていった。
「ふぅ、危なかった。だいじょ……」
 安堵の息を漏らした僕は、即座に凍りついていた。彼女の白い華奢な二の腕。その内側の隠れた先に、大きなあざが広がっていた。随分日が経っているのかシミのような色へと変わっており、即座にこれは消えないなと思いが巡った。
 そんな思いは、彼女に手を振り払われ、瞬く間に打ち消されてしまう。彼女は先ほど垣間見せた心の扉を再び閉ざしてしまうと、すみませんと一言告げ、足早に部屋を去っていった。
 あとには呆然と立ち尽くす僕に、外れた棚が薄気味悪い音を奏でていた。あの繊細な肌に植え付けられてしまった、不気味な傷跡。僕は彼女の悲しい刻印に、どう受け止めるべきか、思いあぐねた。

 その一件以来、彼女は再び片付けの手伝いに来ることは無かった。
 それでも日が経つにつれ、彼女は僕と祖父に少しずつではあるが、心を開いていった。とはいっても、たわいのない話をするのが関の山。彼女の過去は、お互い触れないが暗黙の了解となり、あざの件も頭の片隅に葬ることとした。
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