最終章一節 六月一三日昼、それぞれの思惑

文字数 3,265文字

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 相変わらずどんよりとした雲が、都内の街を覆い尽くす早朝。校内での職員会議にて、僕は衝撃の事実を突き付けられた。
「……公開授業の担当ですか」
「そう。地歴公民担当として、是非とも清水先生に、引き受けてもらいたいんだよ」
 現役時代、仏の英語美作と愛された美作校長が、往年と変わらぬ微笑で、僕を見つめる。
 手元の資料には、七月の公開授業日と共に、仮と題しながらも、僕の名が記載されていた。
 今年度僕たちの学校が、近隣の若手教師が集う、公開授業の担当校であることは知っていた。しかしまさか自身にお呼びがかかろうとは。
 そもそも今年の担当科目は数学では無かったのか。僕はその情報元に目を向ける。その相手は特に悪びれもせず、ペロッと小さく舌を出し僕の出方を伺っている。
 それは彼女の隣、僕が予測していた数学狩野先生も、また周囲の先生も一緒だった。皆幾分驚きながらも、どこか励ますような視線で、僕の返答を待ちかねている。
「いや最近、先生が忙しいのは知っている。断ったって一向に構わないよ。でもせっかくの機会だ、どうだい、貴重な経験を積……」
「やらせてください」
 校長が言い終わらないうちに、僕は即答し承諾した。
 瞬間、室内は温かい拍手に迎えられた。近くにいた先生から励ましの語が浴びせられる中、僕は気合をつけ、資料から仮の文字をかき消した。

「いや、ごめん。数学は来年だった……でも、良かったじゃない! こんな機会、本当、一生に一度あるか無いよね~」
 そう言い、松岡は旨そうに笑みを浮かべ、うどんを啜る。
「まぁな、おかげでまた暫く終電帰りの日々が続きそうだけど。しかし地歴公民の若手なら、佐々木先生やら平原先生もいるのに、なんで僕なんかが」
 五限の空き時間。僕は彼女を誘い、珍しく食堂でご飯を共にしていた。周囲に生徒の姿は無いものの、僕は声を潜め疑問の声を投げかける。
「さぁ、佐々木先生は私と同じ三年を受け持っているし、平原先生は前週に球技大会……って、それより正直、清水先生の最近の行いが評価されたんじゃない」
 淡々と表情を変えることなく、幼い顔立ちの彼女がさらりと告げる。
「再設間もない天文部が、一気に文化部の顔になり、更にクラス運営や指導課も上がり調子。今言った他の先生の事情もあると思うんだけど、案外それに対する期待も大きいのかも」
 そう言い、彼女は出汁が薄いなぁと文句を垂れながら、ぺろりとうどんを完食する。
 対照的に、僕が注文したカレーはまだ半分以上残っていた。食欲無いんですか、何気なく尋ねる彼女に、僕はそんなことないよと強引にライスを掻っ込む。
 清水先生頑張っていますね。最近周りの先生からそう声をかけていただく。それ自体は大変有難いことなのだが、正直あまり実感は湧かない。
 確かに気合は入れている。しかしそれは一足先に担任に昇格した、同期の松岡に追いつきたい、ただ一心であった。偶々持ち上がりの学年の担任が多く抜けたから。彼女や周囲はそう言うものの、僕にはやはり負い目に感じてならなかった。
 そして天文部。それは僕の顧問としての頑張りなんかではなく、真田を初めとする四人の二年の奮闘、それが全てである。僕は何も誇れることなどしていない。瞬間、脳裏に合宿の夜を思い出す。一度は教師を止める覚悟までしたあの時の失態、僕は慌ててその悪夜を振り払った。
「まぁ成否はともかく、周囲がそう評価してくれるなら、その期待に応えるよう頑張るよ。公開授業も引き受けたからには、絶対成功させてみせる。そして少しでも早く、一人前の教師になりたい」
 そう意気込む僕に、松岡は満足そうにうんうんと頷いた。そこでふと彼女は思い出したように、
「そういや、来週だっけ、三日間休み取るんだよね。公開授業控えているけど、大事な用事なの?」
 スマホの共有カレンダーを眺め、ぽつりと呟く。
「ん? あぁ、その日だけは、どうしても外せない用なんだ」
 そう答える僕に、彼女は気にも留めず、デートですかと呟き席を立つ。
 僕はやんわりと否定し、それでも大事な人には会うよと返す。途端に彼女は、トレイを揺らし、誰なんですか、その人! と驚いて振り返る。
 しかし僕はそれに応じず、黙って彼女をすり抜け、返却置き場へと向かった。
 そう、僕は全てを無事終わらせて、公開授業をやり遂げる。
 休みの前日まで、僕は数多の業務の傍ら、来るべき公開授業の準備に全力を注いだ。

 梅雨の合間の晴れ間。朝から照り付ける夏の陽に、あの夏病室で見た時と同じ、一朶の入道雲が、東京駅の上空にぽっかり浮かび上がっていた。
 それを僕はプラットフォームからのんびり眺め、やがて滑り込んできた北陸新幹線特急「かがやき」に乗り込む。
 車内は平日の昼前だけあり、乗客はまばらだ。富山まで二時間弱で着く。東京を出立すると僕は、先日初音とやり取りしたメールの何通かを改めて見返した。

 〝六月一三日、そちらの村にお邪魔させていただきます〟
 僕が随分前に登録した初音のアドレスに、ショートメッセージを送ったのは、紗英と別れた翌日の昼下がりのことである。
 前回はこっそり村に乗り込み、その結果失敗した。どうせ今回も、誰にもばれず千寿を連れ出すことなど不可能に近いのだ。だったら正攻法で、突撃するしかない。
 反応があるかさえ定かではなかったが、はたして三〇分後、彼女から七年ぶりの応答がきた。
〝随分ご無沙汰ね、私たちに御用?〟
〝用など一つしかないことぐらい、ご承知でしょう〟
 僕の返信に彼女からレスポンスがあったのは、それから一週間後のことである。
〝わかりました、私の方で出迎えに行きます〟
 その一文と共に、彼女は、件の道祖神前の地図を送付してきた。

 全身から汗が噴き出す。てっきり季節外れの猛暑によるものかと思っていたが、それは冷房の効いた車内でも、一向に引かない。
「ふふっ、やはり身体は正直だな。大戦を前に、相当緊張しているんだな」
 震え出す手を抑え込み、僕は自嘲的に窓を眺める。早くも周りの風景は、すっかり慣れ親しんだ街の家並みから、僕の人生を形作った田舎の山の茂みへと変わる。
 鬱蒼と生い茂る信濃の木々は一本一本逞しく、その分他との関わりを厳しく拒絶しているようでもあった。
 果たして今度こそ、僕はあの村で千寿の〝ヒーロー〟になることは出来るのか。
 窓辺のひんやりした山道とは裏腹に、僕の燃えたぎる決意を乗せた新幹線は、定刻通り富山の駅に到着した。

「清水敦生、やはりあの村に向かっているようです」
 部下の報告に、私はわかったと告げると、彼に下がるよう促した。
「ようやく動いたか……しかし長かった」
 最近めっぽう増した白髪をかき上げ、私は議員デスク脇の写真立てを手にする。
 そこには大きな真鯛を吊り上げ豪快に笑う男と、その傍で控えめに微笑む自分の姿があった。彼は長年苦楽を共にした恩師であり、そして自身の手で葬り去った政敵。
「正二さん、私はあなたを踏み越えたおかげで、あなたも上り詰め得なかった副町長の座に就くことが出来ました。そして……随分と時間がかかりましたが、漸くあなたの〝癌〟も消し去ることが出来そうです」
 写真立てを握りしめ、まだ慣れない執務室から町を眺める。
 正二さんの息子、敦生君。個人的には昔から高く評価しており、出来ればこちらの世界には戻らず、そのまま都内で生活を終えてほしかった。
 しかし彼は、いずれ彼女の下へ再び駆けつけるだろうとも予期していた。そういうものなのだ、彼女の出自とは。周りを不幸にしてでもどこか惹きつけられる、だからこそ関与してはならない。麻薬とは違う、得体のしれない甘美、この国のタブー。
「私はそれを早々に潰さなければならない。彼を破滅に追いやった以上、それは最大限の責務であり、また現代の政治家としての職務だ」
 既に手は打っている。この民主主義社会から隔絶された、一つの村を潰すことなど訳はない。私は長年の悲願とこれから起こる惨劇を前にして、武者震いしながら窓辺から離れた。
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