三章四節 星空の村が生んだ奇跡(前)

文字数 5,216文字

    13

 校庭の桜は、早くもその一部が花芽を開かせている。残り数日足らずで、辺りは桃色のトンネルに覆われることだろう。  
 来るべき新年度に胸高鳴りながらも、学生にとっては未だ春休み真っ只中のこの時期。がらんとした校舎の出入口で僕は腕時計を確認する。
 時刻は午前八時、集合時間までまだ一時間もある。我ながら早く来すぎたかと少し後悔した。しかし、だ。
 春らしいうららかな晴天の下、眼前の集合場所には、
「清水せんせー、遅いですよ。俺ら三〇分前には全員揃っていましたから」
 意地の悪い笑みを称えた千賀を筆頭に、高揚した表情の天文部員が、既に待ちわびたとばかりに僕を待ち構えていた。

「お前ら、それだけ早く行動できるなら、調査書も、もう少しゆとりをもって提出してほしかった」
 この数日のために借り上げた、デミオのレンタカーに乗車し、予定より早く学び舎を出発する。
「先生、違います。『早く行動できる』じゃなくて、せざるを得なかったんですよ。俺、昨日から楽しみすぎて一睡も出来なくて。結局居ても立っても居られず、夜が明けるとすぐ家を飛び出したんです!」
 首都高に乗り込んだタイミングで、ふと何の気なしに呟くと、助手席にておしゃべりに興じていた千賀が、ぐっと顔を近づける。
「そうですよー。私も昨夜はワクワクしてうまく寝付けなかったです。ってか調査書、確かにぎりぎりでしたけど、よく書けたって先生、褒めてくれたじゃないですか」
 山田の持参した観光ガイドを覗き込みながら、早瀬が不満顔で口にする。
「ん、まぁな」
 僕はミラー越しに、後ろに控える私服姿の三名の生徒を確認する。
 彼らの提出した調査書は確かに、どれも丹念に調べこまれた、大変評価の高い報告であった。
 その中でとりわけ異彩を放っていたのが、真田の調査書である。
 今回訪れる村の成り立ち、それを天文と絡めながら子細に追った記述は正直、専門の研究書と引けを取らない程の出来であった。 
「ねぇ、美咲も着いたらここのお焼きを食べようよ!」
 突然早瀬が『絶品グルメ』と謳われた有名お焼き店の頁を彼女に突き付ける。
「かぼちゃの味が絶品みたい! 美咲は何味が良いと思う!?」
 彼女の質問に、真田は暫く黙考した後、無難に粒あんかなと、柔らかな笑みを浮かべる。
 先ほどから彼女は、他の三人の会話に興じながらも、その間熱心に星座表を読み込んでいる。
 他の三人が劣っていたというわけでは決してない。それでも彼女がこの合宿にかけた思いは、やはり相当なものである。
 僕はこの数週間で、彼女の天文に対する愛を、部に対する熱意を、改めて実感したような気がする。
 彼女をこれだけ夢中にさせているエネルギーとは一体何なのか。
「ちなみに先生は、何のお焼きが好みですか?」
 いたずらっぽい表情の早瀬が、ひょこんと顔を覗かせガイドを提示する。
「ん、そうだなぁ……これ、昔一度食べたんだけど、きんぴらごぼうは随分と美味しかった」
「えっ」
 途端に彼女は表情を強張らせ、
「「「「渋」」」」
 即座に四人に告げられた否定の語。ここで年齢とのギャップが露呈してしまったか。高校生との嗜好の差に落胆しながら、車は一回目のサービスエリアへと突入していった。

 既に何度目かの坂道の急カーブを抜けた先に、赤色の禿げた大橋が姿を現した。
『この先、阿多村』入口横の朽ち果てた看板の隣に、『星空観測会はこちら』と真新しい黄色の幟が佇んでいた。
「ようやく着きましたね。薄暗い新緑のトンネルが延々と続いて、もう一生抜け出せないかと思いましたよ」
 それを見て、途中から助手席に腰を据えた山田がほっと胸をなでおろす。後ろでは甲府を抜けた辺りから、夢の世界へと誘われた三人が、心地よさそうに眠りに興じている。
 とその時、橋の方から数台のキャンピングカーがこちらへと向かってくる。名古屋と品川ナンバー。恐らく彼らも僕たち同様、本日のイベントのために、はるばるこの地へやって来たのだろう。
「あの人たちも観測会の参加者みたいですね。まだ六時間程ありますが、既に多くの愛好家で賑わっているんでしょうか」
 同じ趣味を持つ人々が、一堂に介することに快感を覚えた山田が、胸を弾ませながらこう呟く。
「あぁ、きっと全国の天文好きが集まっているんじゃないか。まさにこの日を待ちわびたとばかりに」
 寝息を立てる真田をちらりと見ながら、僕の鼓動も幾分加速する。
 しかしそれは、果たして本日の大イベント前の高揚感だけだろうか。
 車は橋を抜け、再び山間へと吸い込まれる。穏やかでいて、その存在をこれ見よがしに誇示する広葉樹林が視界を埋めつくす。
 気づけば山田はスマホをいじり出し、車内は再び静謐に包まれる。心地よい沈黙の時間、そのはずがこの時の僕には、どこか不穏な空気の前触れのように思えてならなかった。

「阿多村到着! 見て、美咲! あんなエメラルド色に透き通った川、私生まれて初めて!」
 寝起きとは思えないテンションで、旅館脇の川を撮影する早瀬。それに続き都会育ちの真田も珍しく目を輝かせる。
「おいっ、後で散策時間作るから、とりあえず荷物を部屋に入れろ! ってか千賀も! 山田にだけ積み下ろしをさせんな!」
 今回お世話になる旅館の駐車場は、早くも多くの車でごった返していた。僕らと同様、観測用品を館内へと持ち込む人々を目の当たりにし、部員の活気は先ほどから急上昇中だ。
「はいっ、今行きます! へへっ、すいません、すいません」
 到着後いの一番に下車し、眼前の周辺マップを見つめていた千賀が、何やら思いついたとばかりにニヤニヤと駆けよる。
「先生、明日の夜ですが、時間少し取れますか?」
「明日? 予定では今回の合宿の振り返りをしようと思っているが、その他は特に」
 そう伝えると、千賀は満足そうにうんうんと頷くと、
「了解です! あっ、荷物ですよね。俺、この辺の大きいやつまとめて持っていきますよ!」
 高鳴る興奮を抑えられないとばかりに、彼は部の荷物を手にすると、駆け足で入口へと向かっていった。
「千賀のやつ、何か企みましたね」
「だな……まー、今夜の観測会が終われば、後は基本お前たちに任せるけど」
 苦笑いを浮かべる山田と共に、僕はトランクから荷物を出し終える。
 後々この千賀の企みが、僕の人生を再び変転させることなど、この時の僕には知る由も無かった。

 夕刻、自室にて少し仮眠をとった僕は、四人を集めると、再びデミオに乗せ、お目当ての会場へと向かった。
「先ほどよりも、また一層来場者が増えていますね……」
 昨秋、部で製作したウィンドブレーカーを着込んだ山田が、車を降り驚嘆の声を漏らす。
 だだっ広い空き地を埋めつくすのは、数百を超える車の量であった。そしてそこから派生する長蛇の列は、数キロ先のゴンドラ前まで形作られている。
「まじかよ! 時間に余裕をもって来たはずなのに……これオープニングセレモニーに間に合うのか」
 私物の天体望遠鏡を肩にした千賀が眉を潜める。その横で厚手のパーカーにスキニーパンツに身を包んだ早瀬も、
「しかもさっきから急に寒くなってきたし。この荷物を背負ってあそこに並ぶの、考えただけでもだるいー」
 はぁとため息を吐き、備品の入ったリュックを背負い直した。
「美咲もそう思うでしょ……って美咲? さっきから何見てんの?」
 下車してから一言も発しない真田に、早瀬が心配そうに顔を向けると、
「いや、宵の明星……そろそろ出ていないかなって」
 周りを気にせず、一人真剣な表情で、彼女はじっと西の空を見つめていた。
「宵の明星。確かにそろそろ見えてもおかしくないわな」
 そう述べ四人を引き連れ、列へと加わる。
「確かに……あっ、あれじゃね」
 千賀の指さす木立の隙間、丁度日没を迎えた夕闇空に燦然と輝く一番星が見えた。
「ほんとだ! ってか前に尾高山で見た時よりも、一層はっきりと見えるよ」
「綺麗、ねぇ、もう少ししたら、冬の大三角も見えるかな!」
 気づけば四人は手にする荷物も忘れ、真田を筆頭に今夜の天文談議に夢中になっていた。白熱した談義は前の老夫婦も加わり、気づけば四〇分の待ち時間はあっという間に過ぎ去っていた。

 四時間後、僕たちは夢のようなひとときを満喫した。
 人工光ですっかり明るく照らし出された会場。目前の遊歩道には、早くも参加者の列が連なっている。ここでこんなに並ぶようなら、下山までには恐らく行きの倍ほどの時間はかかるだろう。
 レジャーシートを畳み終えた僕は、ちらりと後ろの部員を見やる。しかし男衆二人は不満を漏らすどころか、いまだ恍惚とした表情のまま頭上を眺め、
「あぁ、もう下山の時間か……もし叶うのなら、一晩中ここで過ごしていたいぜ」
「だね。僕もゴンドラの時間さえなければ、一日寝袋にくるまってこの星空を拝んでいたいよ」
 名残惜し気に望遠鏡と寝袋をボストンバッグにしまい入れた。

 幻想的なゴンドラで山を登った先には、ロマンチックな観測会場が待ち構えていた。甘酒売りや五平餅店、さながら大晦日のごとき出店を抜けた先に、大型スクリーンの据えられた芝生広場が姿を現した。
「あれが、今回のイベント会場です。あそこで本日の天体観測が行われます」
 真田の指さす先には、既にイベント前の余興が行われていた。天体好き芸人、地元天文学者の解説。それを横目に、僕たちは丁度五人の座れそうな空間を見つけ、急いでレジャーシートを押し広げた。
「それでは、そろそろお待ちかね、全照明を落としたいと思います! これから二千人の参加者で春の星空を堪能しましょー。皆さん観測の準備はよろしいですかー!?」
 思い思いに準備を完了したタイミングで、それまで司会を進めていたアナウンサーがこう告げる。マイク音が切れると同時に会場内から響き渡る、熱気に満ち溢れたカウントダウン。
『十、九、八』
 二千人の参加者は、一つの感動を目前に昂ぶりを覚えていく。掛け声に合わせ、それが最高潮に達したまさにその瞬間、
「ゼロ!」
 パッ。
 周りの人工光が一斉に途絶え、それまで曖昧模糊だった頭上の闇夜に、あふれんばかりの星々が視界を埋めつくす。
「うわっ」
「すげぇ……」
 春の北斗七星から、四~五等星のプレセぺ星団まで。迫りくるように光り輝く星空は、まさに降り注ぐという語がふさわしい絶景だった。
 それまで賑わいを見せていた周囲が一気に沈黙に包まれる。大自然の荘厳さに、言葉はどれを取っても無力だ。
 それから十五分。僕たちは世界を忘れ、眼前の自然美にひたすら魅了された。

「先生、片づけ完了しました! さて、私たちも、そろそろ列に並びますか」
 先ほどの観測を一人回想していると、行きと同じ大きなリュックを背負った早瀬が、パタパタと駆け寄ってくる。淡い星光で照らされた彼女の素顔も、ほのかに上気し腫れぼったい。
「先生、私、今夜の体験本当に忘れません! ほんの数十分足らずでしたけど、この二千人の人たちと共有した星空、私にとって一生の宝です!」
 そう豪語すると、再び感極まったのか、パーカーの袖で目元をぐっとぬぐう。
「私もです、先生。自宅のパソコンでこのイベントを知った時、まさかこうして皆と観測できるなんて本当に思ってもいなかった」
 早瀬の後ろに姿を現した真田が、一言一句噛みしめるように呟く。
「でもあの時、皆の合宿への熱意に押されて、言うだけ言ってみた。そうしたら清水先生も職員会で頑張ってくれて……それで今日、こんな――」
 途端に両手で顔を埋め、全身を小さく痙攣させる少女。その儚げな肢体に、ぎゅっと早瀬が優しく包み込む。
「何言ってんのよ、美咲。全てはあんたがこの部を再設し、私たちを引っ張ってくれたおかげでしょ。改めて、私たちに最高の思い出を体験させてくれて、ありがとう!」
「澪……」
「おーい、俺たちを忘れんなー」
 気の抜けた声に視線を向けると、大荷物を両手に引っ提げた千賀と山田がすっかり蚊帳の外とばかりにぼやきを漏らす。
「あっ、あー、ごめん! 片づけの報告に来たつもりが、すっかり忘れてた!」
 顔を赤らめながらも、すっかりいつもの明るい調子で、早瀬が千賀の手元に近づく。
 とそれを払いのけ、彼はガシガシとご自慢のウルフヘアをかきあげる。
「でも、真田、ありがとうな。本当に日本一の星空だったよ……だけど違う、これで終わりじゃない」
 そう呟くと人目も気にせず、ひと際声を張り上げ、
「まだまだ俺たちと、いやこの四人で、もっと凄い星空を見つけていこう!」
 微笑を称える山田と共に、彼は二人の仲間へ高らかに宣言する。
「千賀、なにそれ……」
「えっ、ってか本当最高じゃん!」
 ぷっと真田が吹き出し、早瀬が涙を湛え、彼の肩をどつく。
 今回の天体観測を通して、一層強固になった四人の絆。それを祝福するように、無数の星々は一層その輝きを増したような気がした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み