三章十一節 品川、彼女に告げる、最後の決意(後) 

文字数 2,106文字

 僕は彼女にこの三か月に起きた身の上を、包み隠さず全て話した。
 二月頃から天文部顧問として尽力していることから始まり、春休みに部員と合宿で長野へ訪れたこと、そしてその地でかつて千寿の村に住んでいた村人から彼女の現況を聞き出したこと。
 紗英は初めのうち、彼女に振られた影響かだの、生徒に溶け込みすぎだの、楽し気に茶々を入れていた。しかし僕が石井と遭遇した辺りから、彼女は何かを悟ったように無言で僕の話に聞き入った。
「……でその彼が、あの富山の村にかつて住んでいた村人だったんだ。僕はその彼から、〝千寿〟の村のこと、そして今彼女がどうしているかを聞き出した」
 〝千寿〟僕がその四字を呟いた時、その声がいたく震えていることに自分でも驚いた。即座に、ぐっと彼女から嗚咽が漏れる。
 視界の先にはまるで疫病神でも見つけたかのように、彼女は驚愕と拒絶の色を浮かべていた。以降語り終えるまで、彼女は一度たりとも僕に目線を向けてはくれなかった。

「というわけで、彼女は今でもあの村で口寄女をやらされている……それは変わらず叔母とその愛人の管理下で、彼女の意思は一切廃されているとばかりに」
 そこで僕は話を区切り、先ほど頼んだ二杯目のジントニックを口にする。
 再び周りの喧騒が僕たちを包む。気づけば外の雨は止み、曇天のお台場にはうっすらと月明りが漏れていた。
 僕が話し終えてもなお、彼女は一言も言葉を発しなかった。それからお互い十分程沈黙を保っただろうか、おもむろに彼女は自虐気味に口を開き、
「……私ね、なんだかんだ故郷が好きなんだろうな。東京に越してきた今でも、定期的に外海から情報を仕入れているんだ。それでね、先週町議会議員選挙があって。富川町長が見事二期目の再選を果たしたんだって」
 独り言のように小さく、それでいてはっきりと呟いた。
「……そっか」
 父の失脚後、三年前の町議会議員選挙。現職の川田町長を主とする父と同じ派閥の議員は軒並み廃され、変わって彼を追い詰めた富川議員が見事町長の座を得たと聞いた。
 一連の交代劇。それは富川氏に特段魅力があったからでない、失脚した議員に落度があったからでない、ただ父が著しく村人から信頼を失ったその派生によるものであったという。
「でも今回、副町長は交代することになったんだ。前回も再選した穏健中道派の小笠原議員は結局落選し、それに代わって新たに就任したのが」
 彼女はなおも懇懇と地元の町政を語る。いつしか僕の心は、まるで汚手に握られたかのように疼いていた。
 瞬間彼女が、視線を上げる。その顔はにっこりと、幼い頃から慣れ親しんだ、安らぎを与えてくれる微笑が浮かんでいた。
「前の選挙で当選したばかりの、新人間もない……あなたの父を死に追いやった山根議員」
 ドッと僕の鼓動が乱れる。途端に父の苦悶に満ちた表情が脳裏に浮かんだ。僕は慌てて目の前のジントニックを掴んだ。
 しかしそんな僕の動揺を、彼女は意にも介さなかった。悲し気な視線で僕を見つめる彼女は、やがて覚悟を決めたように、
「彼女の村だけでない……私たちの田舎も、未だ旧態依然が抜けきっていないのよ! 敦生の七年前の行動が間違っていたとはいわない……けど、でも全てとは言わなくとも、あなたが〝あの女〟に会いに行ったことで、町は大きく変わってしまった!」
 紗英は熱弁しながらも、僕を詰るでもなく、半ば諭すように語った。
「あなたが偶然、〝あの女〟と同郷の人間と出会い、彼から彼女の現状を聞いた。それは別に何も問題はないと思う」
 店が混んできた。店員の視線が少し感じるようになる。彼女は一つだけ残っていたカナッペを口に入れると、
「でも、その報告だけをしに、わざわざ私を呼び出した訳じゃないでしょうね」
「あぁ、もちろんだ」
 彼女の問いかけに、間髪入れずに答える。それだけ気持ちが定まっていることに、改めて自分でも気づかされる。
 僕の即答に紗英は、一瞬悲しげな表情を浮かべる。しかし彼女は何も言わなかった。僕は漸く、今日彼女に伝えるべき語、
「六月に三日間の休みを取ることになっている。僕はその休日に、もう一度彼女の暮らす村に行くことに決めた」
 何度も迷い考え、それで漸く導き出した決意を、ただ一人全てを許せる幼馴染に告げた。
「そう。それで、その村に行って、あなたは彼女をどうするつもり」
「彼女が望んでいなければ、無理強いはしない。でもそうでなければ、僕は彼女を村から連れ出し、僕たちは一緒に暮らす」
 右の額に水滴が垂れる。即座に水を浴びせられたことを理解する。彼女は握ったグラスを置くと、無言で帰り支度を進める。
「お袋にも、外海にも。他にも誰一人として、このことは伝えてはいない! 僕一人の戦いだ! でも……でもせめて、紗英にだけはどうしても……」
 声が震える。店内の視線が一斉に向けられていることを肌で感じる。しかし僕は、彼女にだけはどうしても、最後まで抗いえなかった、この気持ちだけは伝えておきたかった。
 彼女が席を離れる。その表情にはうっすらと涙が浮かんでいた。〝頑張って〟そう小さく告げた彼女の唯一の本音が、僕の聞く紗英の最後の肉声であった。
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