序章

文字数 835文字

 甲高い蝉時雨が耳をつんざき、否が応でも悲しい現実を僕に突きつける。折しも、気象庁が梅雨明けを宣言した、夏の訪れを告げる早朝。
 祖父、清水潔が八五歳の大往生を遂げた。
「じぃちゃん……うぅっ、じぃちゃん、おじーちゃんっ!」
 不気味な程、真っ白に統一された病室。泣き崩れる千寿を前に、僕は黙って彼女の小さな背をさすってやることしか出来なかった。
「よりによってこのタイミングで……ね。本当に最後まで、俺の邪魔をしやがって」
「あなた! いくらなんでも、不謹慎よ。それに、どこで誰が何を聴いているか、わかんないんだから」
 応援カーで病院に駆けつけた父正二が、露骨に悪態をつく。町議会議員選挙真っ只中の彼は、父の死に目もろくに、しきりに腕時計を気にしていた。随分日に焼けたなぁ。数週間ぶりに見る父の脂ぎった小麦肌の顔に、暫しの間ぼーっと見とれる。
「美和。葬儀は兼ねての通り、首尾よく済ませてくれ。通夜には参加する。すまないが、よろしく頼む」
 彼女にわずかに目配せすると、父は後援者回りだと、秘書の山根と共に病室を後にした。少しの時間も賄賂取りに惜しいか。そんなことを考えていた手前、突然彼から呼ばれ、文字通り心臓が飛び上がる。
「敦生! じいさんが死んだから、千寿は石井の家に返すからな! 随分仲が良かったみたいだが、約束は約束だ」
 父が病室を去って暫く。なおも祖父の横で泣き続けている彼女には目もくれず、母は憔悴しきった顔で、病室の後片付けに取り掛かった。
「これで借りは返したからね。悪く思わないでよ、千寿。これは死んだおじいちゃんが悪いんだから。そう、私たちはむしろ、しっかり役目を果たしたのよ」
 長いくびきから解放されたとばかりに、彼女の顔には長年の辛苦がにじみ出ていた。そう、僕はこの人たちをとても責めることなど出来ない。でも、でもだからこそ。
 僕が千寿を守ってあげなきゃ。
 僕にとって一六回目となる夏の始まり。病室の窓から覗く、一朶の入道雲に、僕は覚悟と決意の誓いを立てた。
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