一章九節 告白(後)

文字数 3,081文字

 太陽の陰りを見せ始めた青田に、夏のトンボがのんきに舞っている。来たる夏休みを前に、すっかり緩みきっている生徒をよそ目に、僕は半年ぶりの中学校へと急いだ。
 校門にたどり着くと、僕は所在無さげに校内の様子を見やった。
「もうそろそろ下校時間のはず。まぁ、あいつが今日部活に出席していればの話だが」
 グラウンドでは野球部の生徒が、用具の片付けを行っている。やがてその野球部員を皮切りに、続々と生徒が校外へ溢れ出てくる。
 僕は校門から少し離れた場所にて、ひっそりと彼らに視線を向ける。
 中には隣市の高校制服を着て、校門を伺う僕に、不審な顔を浮かべる生徒も何人かいた。その視線に躊躇いながらも、僕は素知らぬ体で黙って彼らを見過ごした。
「……でさー、大会終わったらさー、プールに行こうと思うんだよねー。二学期から忙しくなるし、最後の思い出作ろうよー!」
 それから一〇分経っただろうか、すっかり空っぽになったはずの校内に、吹奏楽部の生徒が姿を現した。
 長い練習を終え、一瞬の開放感に包まれた集団の一角に、果たして千寿の姿が見えた。
「夏祭りもいいよねー……ん? あの人自達館の制服……って、あれ? もしかしてあの人、千寿の兄貴じゃない?」
「えっ?」
 僕に気づいた集団の一人が彼女に目配せをする。するとそれまで楽しげに談笑に加わっていた彼女が、忽ち焦燥と困惑の色を浮かべる。
「あー、うん、私の兄貴だわー。ってか、何でこんなとこにいんの……ごめん! 翔子! また明日!」
 彼女は苦笑いを浮かべ、一団から抜けると、半ば怒り気味にこちらへと駆けてきた。
「おー、既に帰っているかとも思ったけど、待ってみて正解だったな。律儀なお前の性格だし、今週の夏の大会まで、部活は休むはずはないって思っていたから」
「……何で、わざわざこんな所まで来てんのよ。用事なら家で……」
「どうせ家でも、なんだかんだ言い訳付けて、俺から逃げるだろ。それに邪魔も入りそうだし」 
 僕の言葉に、彼女は肯定するでも否定するでもなく、ただ黙って先を歩き始めた。夕焼けを背に、夏の制服を身にまとった彼女は、心なしか幾分遠い存在に感じられた。

 彼女に付き添う形で歩を進めていた僕は、気づけば河川敷の土手沿いへと場を移していた。
 丁度夕陽も沈むかという頃合い。真っ赤な太陽の下、のんびりと犬の散歩をする団地の住民がちらほらと見える。
「で、話って……まぁ、私が富山に戻ることよね。ごめん、敦生には事前に話してなくて。驚かせちゃったよね」
 彼女は土手の草むらにぺたんと座り、僕もその隣に腰を据える。
「富山に戻るって、何でこのタイミングで……それこそ、中学を卒業するまで、この地で暮らしていけばいいのに」
「いや、それだと正二さんと美和さんに迷惑かけるでしょ。元々おじいちゃんが生きている間って、取り決めだったし」
 か細い彼女の声を断ち切るかのように、遠くから犬の雄叫びが聞こえた。お互いぎょっとして視線を向けると、その先に二匹の柴犬が、主人の制しも聞かず互いを威嚇し合っていた。彼女は暫く興味深げにそれを眺めていたが、ふと小さな溜息をつき、
「敦生には、ほんとにお世話になった。でもこれは私のけじめでもあるの。私がこの地を去ることで、あなたや叔父さん叔母さん、この地の人々、ひいてはあなたの家全体が幸せになる」
「寂しいのは一瞬、でもすぐに私のことは忘れるわ」
 こう述べる彼女の視線はどこか虚ろで、何かこの世ならざるものが移っているようだった。不意にひんやりした夕風が僕の背中を伝う。その不気味な何かに抗うように、僕は噛み締めるように一言、
「でもお前、富山の叔母さんに虐待されていたんだろ。今まで黙っていたけど、こっちに来て暫くの時に見た二の腕のアザ、一度たりとも忘れたことはない」
「……」
 見え辛い位置を意識し、つけられた大きなアザ。それが富山の叔母につけられたことくらい、容易に想像出来た。千寿は過去に辛いことがあった。しかし現在の彼女に大切なものは、今を楽しく、充実して生きてもらうこと。
 僕は頭の片隅に寝かせていた千寿の苦い過去を、今こそ向き合うべき時と、躊躇うことなく提示した。
 千寿は暫く僕を見つめた後、観念したようにしかめっ面を浮かべ、
「はぁ。あの時、柄にもなく手伝うなんて言ってなければねー。ってか、随分前のことだし、てっきり忘れてると思ってた」
「……あんな、衝撃的な光景、忘れようとしても忘れられるか」
 彼女の反応を見て確信した。やはり彼女は、叔母の下に帰すべきではない。
 千寿も取り繕っても無駄と悟ったのか、ゆるゆると首を振ると、
「……そうよ、確かに私は母の死後、叔母から虐待を受け、それを知ったおじいちゃんの図らいでこの地にやって来た。でもあれから一年経って、叔母も反省してるって。昨日電話で語ってくれた。完全に信じきったわけではないけど、それでも、私はその言葉に、もう一度賭けてみたいの」
 そう力説する彼女の瞳は、何かにすがるかのゆうに、薄黒く揺らめいていた。
「でももし……もし、それが偽りだったらどうする。叔母さんの虐待が治っていなかった場合、千寿の周りにはもう、助けてくれる人はいない」
 既に夕闇に包まれた世界。団地の部屋から優しげな灯火が漏れる。幼い時分、僕はそこで営まれているであろう家庭と比べ、我が家の歪さにずっと嫌悪を抱いていた。しかし頼るべき縁のいない彼女と出会ったことで、初めて両親のいる有り難さに気づかされた。
「皮剥ぎ士」
「えっ?」
 唐突に発した彼女の言葉に、忽ち世界が揺らいだ。彼女はこれまで見せたことのない冷ややかな視線を僕に向け、
「私のお父さん、代々皮なめしを専門とする家系だったんだ。頭の良い敦生なら、何が言いたいかわかるよね。そんな父と、妾の娘を母とする、私は清水家に災いをもたらす、いわば疫病神」
 まるで呪いでもかけるかのように、僕との距離を詰め、無表情にじっとり見つめる。虚ろな瞳が間近に迫り、妖艶さ漂う芳香が僕の鼻腔をくすぶる。彼女の吐息に気を取られ、僕は何も言い返すことが出来なかった。
「千寿、そんなこと……」
「……だけど、ねぇ。そこまで敦生が私のこと考えていてくれてたなんて、少し意外だったかな! ふふ、もし私が富山で辛い目に合っても、敦生、助けに来てくれるかな……なんて」
 ふいに彼女は立ち上がると、スカートの草を払い、んーと大きく伸びをし、
「さっ、帰ろう! 今日の晩御飯、何かなぁ。担当再び叔母さんに戻ってくれて本当助かったよ。あれ、献立を準備するより、考える方がめちゃくちゃ大変なんだよねぇ」
「千寿、俺!」
 僕は意を決し、立ち上がる。既に道路沿いへと上がっていた彼女に、必然見上げる形になりながらも怯むことなく、
「俺、お前が苦しんでいたら、どんな所でも助けに行く! たとえ周りが不幸になるようであっても、お前が俺の疫病神であっても……俺にとっては大切な、かけがえのない存在だ!」
 夜空には丁度姿を見せ出した星空が、爛然と煌き始めていた。その中に悠然と佇む彼女は、間もなく僕の下から消えてしまう、たった一人の守るべき存在。
「……ん、ありがと」
 彼女は恥ずかしげにこう述べると、顔を伏せ帰路を歩き始めた。僕はそれに従う形で、無言で隣へと歩を進めた。
「敦生」
「ん?」
 不意に彼女が左手を僕へ近づける。その意を僕は即座に理解し、黙って彼女の手を握り返した。
 そのまま家に辿り着くまで握り続けた彼女の右手は、じっとりと温かみにあふれ、僕の中の彼女の存在を強く主張して止まなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み