プロローグ

文字数 1,475文字

 金魚は空を飛ばないと知ったのは小学校三年生のころだった。
 教室に大きな水槽が置かれ金魚を飼い始めた。クラスメイトは皆嬉しそうにしていたが自分には不思議で仕方なかった。何故なら自分の経験上金魚は水の生き物ではなかったからだ。

「何でこいつら空飛ばないんだ?」
「何言ってんのお前。魚は水の中にいないと死ぬだろ」
「つーか空って。金魚は空飛ばねーよ」

 何を言ってるんだと首を傾げて空を見上げた。夏の透き通った青空には真っ赤な金魚が気持ちよさそうに泳いでいる。
 俺にしてみれば間違ってるのはクラスメイトの方だった。

「泳いでるじゃん。ほら、あれ。大きいのと小さいの。親子かな」
「は~? お前UFO信じちゃうタイプ?」
「にしても空飛ぶ金魚って! 女子でも言わねーよ!」

 クラスメイトは声を上げて笑った。間違ったことを言っている彼らに馬鹿にされたのが腹立たしくて、反論したら大喧嘩になってしまった。
 そして親が呼び出されることとなり、きっと息子の正しさを理解し庇ってくれると思っていた。けれど親にも教師にも嘘を吐いて謝れないのは恥ずかしいことだと酷く叱咤され、無理矢理頭を下げさせられたのを覚えている。
 それ以来クラスでからかわれるようになったが、それがいじめに発展するのはすぐだった。四年生の終わりには登校できなくなり転校をした。

「いい? もう嘘吐いて喧嘩なんてしちゃ駄目よ」

 毎日繰り返されるこの言葉への正しい対応は、何も考えず「うん。分かった。ごめんなさい」と口を動かすことだと一年かけて学んだ。
 それと同時に、空を飛んでいる金魚は人には見えないのだということをようやく理解したのだ。

 それでも金魚は空を飛んでいた。
 特定の場所ではなく、日常のあらゆる場所に飛んでいる。自由に移動する金魚もいれば一か所から動かない金魚もいて、中には人間に付いていく金魚もいる。
 行動の規則性など気にしたことはなかったが、こうなったら生態を調べてみようと捕獲を試みたことがある。だが捕まえることはできなかった。手はすり抜け網もすり抜け、物理的な捕獲ができないのだ。
 ならばきっとこれは幽霊の類で、自分は霊能力のようなものがあるのかもしれないという結論に達した。
 それに飛んでいるだけで害があるわけではない。こういうものなのだと呑み込んでしまえば、中学を卒業するころには平静を保てるようになった。高校を卒業するころにはあまり気にすることもなくなった。
 こうして金魚が空を飛ぶことが日常になったが、新たな問題が発生した。
 それは大学二年生になったある夜のことだった。自分の身体がゆらゆらと揺蕩っている。ゆらゆらと、ゆらゆらと。まるで揺りかごにいるようでとても気持ちが良い。これは間違いなく自分の身体だ。心地よさも自分の感覚だ。
 一体ここはどこなのだろうとそうっと辺りを見回すと、ふと自分の脚が目に入った。そこにあるのは自分の脚だ。脚だが、しかしそれは金魚の尾だった。
 足が金魚になっているのだ。

「うわあああ!」

 悪夢にうなされ真夜中に飛び起きた。布団を蹴り飛ばして自分の脚を確認すると、汗でじっとりと湿って魚のようだったが、確かに人間の脚がある。
 肩で息をし大きく息を吐いた。まだゆらゆらと揺れているような気がする身体はまるで水中にいたかのように汗でじっとりと湿っている。
 夢の自分は少しずつ少しずつ金魚の割合が増えている。大学一年生のころは足首から先だけだったが、二年生に進学した今は太ももまで金魚になっている。
 俺は夢と現の境が分からないまま、金魚へ生まれ変わる日に怯えている。
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