(二)

文字数 2,518文字

「アキちゃーん!」
「ぐえっ」

 八重子に気を取られていたその瞬間、どかんと誰かが体当たりして来た。
 声は子供のようだったが決して身体は小さくなくて、ずっしりと秋葉にのしかかった。のしかかってきたのは、ここにはいるはずの無い人間だった。
 秋葉は乗っかって来た人物を押しのけると、相手はころんと転がった。

「いたーい! 何すんの!」
「……依都君?」
「より。突進するの止めろって言ってんだろ」
「だってえ」
「神威君!? 君ら、何で……」
「そうか。お前ら全員グルなのか」
「人聞き悪いこと言うなあ。これには色々事情があるんだあよ」

 そうそう、と可愛らしくぽこぽこと怒る依都はあっかんべー、と叶冬に喧嘩を売った。
 そしてささっと神威の背に隠れたが、依都は以前会った時とは全く雰囲気が違う。急に人柄が変わったように見えたは、真実変えていたのだろうか。

「あの、僕が会うはずだった金魚屋ってどういうことですか?」
「僕らも金魚屋なんだよ! 僕が副店長! 店長は出張中!」
「え」
「言ったろ? 秋葉君の処置をするはずの金魚屋は出張中って。秋葉君はよりちゃんトコの担当地区なんだ」
「え……じゃあ依都君と神威君も、もしかして四十代五十代……?」

 ちがーう、と依都はぷうっと頬を膨らませた。
 二人はどう見ても二十代だ。八重子の年齢は分からないが、夏生のように実年齢と外見が異なる場合もある。

「この二人は見た目通りの年齢だあよ。これが金魚屋でも変わらずに生きていける証拠さ」
「えっと、でも金魚屋の中は時間が緩やかなんですよね」
「そうそう。でもそれは雇用形態によっても変わってくるのさ」
「雇用形態?」

 急に現実味のある言葉が出て来て秋葉は声が裏返った。
 空飛ぶ金魚を扱う金魚屋なんていうファンタジーな存在のくせに、店舗だの出張だの、果てには雇用形態なんて一般企業のようなことを言うとはなんて似つかわしくないのか。
 訝しげに八重子を睨んだが、ケラケラ笑っていてまともな説明は期待できそうにない。早々に諦め夏生へ目を向けるとにっこりと微笑まれた。

「金魚屋には二つの勤務形態があるんだ。八重子さんみたいに金魚屋の中で生きる正社員と、依都君と神威君みたいに生者が金魚屋をやる業務委託」
「正社員? 業務委託?」
「ちなみに俺は八重子さんのアルバイトであって金魚屋じゃない。だから生活は八重子さんと同じだけど生者の中にも足を踏み入れる特殊ケース」
「タイム。一つ質問いいですか?」
「どうぞ」
「金魚屋って企業なんですか?」
「そうだよ。本社があって各地に店舗がある。チェーン店だね」

 なにそれ、と秋葉の口から文句か零れた。どうせなら物語のように美しい存在のままでいて欲しい。

「つまりね、秋葉君が金魚屋をやるなら雇用形態は業務委託。日常生活に金魚屋の仕事が増えるだけ」
「僕も神威君も普通に生活してるんだよ。地下アイドルは仮の姿! とかじゃないの。本当に僕なの」
「そうなんだ。じゃあ店長も業務委託ですか?」
「いんや。かなちゃんは残念ながら特殊ケースだ」

 八重子はぺたんと足を鳴らした。どうやら草履に履き替えたらしい。

「ここに来た以上、かなちゃんは選択しなければいけない」
「選択?」
「ゆきちゃんはもう金魚屋の人間だ。金魚屋の人間と魂を同じくする人間がここに来たなら強制的に金魚屋になってもらう。それが嫌なら――」

 八重子はすっと叶冬の顔に手をかざし、目の前でぐしゃりと何かを潰すようにした。

「これまでの人生を全て忘れてもらう」
「そ、そんな!」
「今僕がここで君の記憶を奪う。うっかり記憶が残るような偶然は無い」
「待って下さい。そんな」

 あまりにも一方的だ。決断を下すにしろ、対等に向き合い話をしなくては冷静に考えることなどできはしない。
 秋葉は八重子に食って掛かろうとしたが、それを止めたのは叶冬だった。

「ゆきは金魚屋になったのか」
「そうだよ。彼はもう金魚屋の中でしか生きられない。そういう肉体になってしまった」
「俺も金魚屋になれるのか」
「店長!」
「なれるとも。そいでもって僕はそれをお勧めするよ。だって金魚屋にいる限り大切な者と生きられるのだからね」

 八重子はひょいと足元をちょろちょろしていた弟を抱き上げた。
 少年は何故か終始無表情だが、すりすりと姉に頬を寄せている。この子が八重子の大切な者なのだろう。ではやはりこの子も金魚屋なのだ。

「それに死なないわけじゃない。ただ少し普通の人間より時の進みが遅いというだけだ。成長もするし老化もする。ただとても遅いだけ」
「けど叶冬君はかなり特殊ケースなんだ。これは君というより御縁神社がなんだけど」
「神社?」
「金魚屋になる場合どの敷地を金魚屋にするかを決める。もし黒猫喫茶を金魚屋の店舗にするとしよう。けど黒猫喫茶は御縁神社という敷地の中にある」
「神社ごと金魚屋になるのか」
「それがややこしいところなんだ。敷地が金魚屋になるといっても金魚屋に繋がる扉は一つだけ。金魚屋の緩やかな時を過ごせるのはその扉の先だけだ」
「……そうか。黒猫喫茶は時間がゆっくりだけど、それ以外の場所で生活すれば普通の時間を過ごせる」
「そうそう。アキちゃんは賢いねえ。なっちゃん見習いたまえ」
「はいはい」

 聞き飽きました、と夏生はぺっぺっと八重子がからかいながら頬を突いてくる指を振り払った。

「つまり、金魚屋の時を生きるのが嫌なら普段は黒猫喫茶に入らなければいい。住居が別にあるんだろう?」
「敷地から出てもいいのか?」
「いいよ。俺だって出てるし。ただ俺は好きで金魚屋の中にいるだけ」
「お止めと言ったのに聞かないんだこの子は」
「それを決めるのは八重子さんじゃないですし」

 夏生は、なー稔、と言って八重子が抱っこしている弟の頬を突いた。
 少年は相変わらず無表情だったけれど、きゅっとなつきのゆびを握りしめた。それはとても仲が良さそうで、ふんっと八重子は面白くなさそうに夏生へ背を向けた。

「つーわけだ! さあかなちゃんどうする!」
「ゆきは金魚屋の時を生きるんだな」
「そうだあよ」

 八重子は手を差し伸べた。すらしとした白く細長い指は人形のように美しい。

「金魚屋をやるかい? それとも忘れるかい?」
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