(二)

文字数 4,033文字

 初見の感想は「やっぱり」だ。
 一晩止まるだけの旅館にあれほどの広さを選び、しかも自ら金持ち仕様と言ったからにはそれなりに広い高級マンションなのだろうと思っていた。
 到着したのは十三階建てのマンションで、シンプルな外観だがパリッとした印象だ。金持ち仕様とはいったいどんな内装かと思ったが、案内された室内は思いのほか普通だった。
 それでも手狭な1Kで暮らす秋葉からすれば、パッと見るだけで扉が五個もある部屋はまさに金持ち仕様だ。

「凄い広さですね」
「そうだろう。ここだけでも広いってえのに上もあるんだよ」
「上?」
「そうそう。こっちにおいで」

 マンションで上というのはおかしな話だ。ロフトでもあるのだろうか。
 それならそこだけ借りれれば十分だなと思いながらついていくと、叶冬の向かった先にあったのはエレベーターだった。室内からしか乗れないのなら当然叶冬専用だろう。

「え?」
「上へまいりま~す!」

 質問する間もなくエレベーターに乗り込み一つ上のフロアに着くと、同じ内装の部屋が広がっている。

「この二フロアがうちだあよ」
「え!?」
「んで、ここ使ってないから使っていいよ」
「いやいや、ちょっと待って下さい。こんな広さ使いませんて。というか二フロアってなんですか?」
「さあね。こういうもんなのさ」
「え~……」
「で、どうだい?」
「……できれば一部屋だけお借りできればと」
「だよね。分かるよ。僕もここいらないし一フロアだけでも広いし。ってえか一人暮らしなんて一部屋ありゃ十分だよねえ」
「はあ」

 こういう感覚は意外と普通の人で、逆にアンバランスさを感じた。
 一通り全ての部屋を見せてもらったがどこもかしこも広くて綺麗で秋葉には決められず、来客用という部屋を借りることになった。
 ベッドやクローゼットは備え付けの物を使って良いとのことで有難く借りることにした。薄い布団で寝ている秋葉にとって、身体が沈むほどふかふかのダブルベッドは夢のようだ。思わずばふっと飛び込みごろごろすると、叶冬が面白そうに笑っている。

「気に入ってくれてよかったよ」
「これ家事だけじゃ割に合わないですよね。やっぱり宿泊費お支払いします」
「いいんだよ。僕はアキちゃんがいてくれるだけで嬉しいのだからね。なんならそのまま居ついてもいいんだよ」
「さすがにそれは恐れ多すぎて……」
「くふふ。快適すぎて帰りたく無くなること間違いなしさ。例えばそのベッドとかね」

 確かにこれは逃げられなくなりそうだ、と秋葉は体を揺らした。少なくとも出て行く時には名残惜しく感じるに違いない。

「家事も完璧にする必要はないよ。勉強と友達との時間を優先して、それ以外の時間でやってくれればいい」
「そうはいかないですよ」
「いいんだよ。じゃないといつまでたっても隈が消えない」


 叶冬に顔を包むように掴まれ、目の下をきゅっと擦られた。
 ――心配してくれているのか。
 勉強と友達の時間を優先なんて、実家でも今でも親から言ってもらえたことは無い。優先すべきは母の要求で、そのためならプライベートな約束は反故にもしなければいけなかった。

「子供は甘えるものだ。なあに、これでも一応大人さ。生活くらいどうとでもなるのだよ」
「……はい」

 叶冬はよしよしと撫でてくれた。
 母も心配してるんだと言い聞かせてきたけれど、本当はこんな風に撫でて欲しかっただけだったのかもしれない。

*

 秋葉の仕事は週一回の掃除と、食事を作る時は二人分を作ることとなった。
 他の家事もやると言ったのだが、それ以上は秋葉の生活時間に食い込みすぎるから駄目だと言ってくれた。
 せめて食事は叶冬が満足できるだけの物を作ろうと思ってはいるものの、秋葉は料理が得意なわけでは無い。ましてや料理が好きだという叶冬に響くのかは疑問だったが――

「ふおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「大したものじゃないですけど……」
「大したものさ! こんなにいっぱい! 楽しい!」

 初日の夜はさっそく夕飯を作った。献立は白米に豆腐の味噌汁、肉じゃが、こんにゃくの唐辛子炒め、ほうれん草の胡麻和え、卵焼き、ひじきの煮物だ。
 作ったと言っても煮物類は作り置きを持って来ただけで、華やかなメイン料理が無いのでせめて賑やかにしようとあれこれ並べただけだった。
 それでも叶冬は素晴らしいと喜んでくれて、手作りの和食に飢えていたから最高だ、と瞬く間に完食した。
 デザートは黒猫喫茶の売れ残りだというシュークリームを出してくれた。猫の形をしたチョコレートクリームがシューから顔を覗かせている。

「っか、可愛い……」
「そうだろう。そうだろう。うちの店の一番人気さ!」
「売れ筋とかあるんですね」
「あるとも! 食べるのは紫音のみだがね!」
「あ……」

 いくら可愛くても、アイスティとセットで三千円ともなると売れないだろう。
 では売れ残りというのは、要するに作った分全てが残ってそのうちの一つを紫音が食べているだけということになる。それは何だかもったいない気がした。

「明日からはアキちゃんも食べてくれるから人気も二倍さ」
「そうですね。すごく可愛いです」
「ふふふ。デザインは紫音がしているのだよ」
「へえ。そうなんだ。店長と紫音ちゃんて仲良いですよね」
「そうだねえ。でも最初からそうだったわけじゃない。性別が違うし年も離れてる。今でも兄としてどう接したら良いものかと常に試行錯誤しているのだよ」
「今でもですか」
「そうさ。家族でも歩み寄らないと仲良くなれなかったりするものさ」

 ぴくりと秋葉の指が無意識に揺れた。
 暗に母親との事を言われているような気がして、なんとなく叶冬から目を逸らした。
 けれど叶冬はそれ以上は何も言わなかった。

*

 秋葉の仕事は週一回の掃除と、食事を作る時は二人分を作ることとなった。
 他の家事もやると言ったのだが、それ以上は秋葉の生活時間に食い込みすぎるから駄目だと言ってくれた。
 まるで親のように気遣いをしてくれるのが嬉しくて、申し訳ないと思いながらも叶冬の良しとする範囲で家事をすることにした。
 せめて掃除は徹底しようと思ったが、ハウスキーパーが入っていたので綺麗なものだった。
 散らかっているものと言えば着物だけだ。大事にしているのかと思いきや、意外にもその辺に置き捨てられている。それも一つではない。全ての部屋に一着は置いてあるのだ。片付けた方が良いかと聞いたら、畳んでも良いが場所は動かさないで欲しいという。理由を聞いてもにやにやとした笑みが返って来るだけで、まるでいつでも使えるように用意しているようにも見えた。
 触らぬ神に祟りなし。着物には触れずに埃が積もらないように叩いて回ることにした。
 歩いていると、部屋の隅にゴミ箱が置いてあるのが目に入った。

「店長。ゴミは捨てちゃっていいですか?」
「うむ! たのもう!」

 生活ごみは定常的に必ず発生する。これはルーティンにしようと少し嬉しくなったが、捨ててあるのは大量の小さな紙だった。

「……店長。名刺いっぱい捨ててあるけどいいんですか?」
「ん? ああ、いいよ。何か良く分からんのがいっぱいくれるんだ」
「連絡するのに必要じゃありません?」
「二度と連絡しない奴らなんだあよ」

 まだ大学生で名刺を持ったことのない秋葉にはよく分からなかった。自分ならとりあえず取って置いてしまいそうだが、しかしこうもどっさりあるのでは捨てたくもなるのだろう。
 金魚屋の店長が一体何故こんな多くの人との交流があるのかはしらないが、ふいにその中の一枚に目がいった。

「佐伯会長の名刺だ」
「後から送って来たんだよ。よくもまあ」
「はは……」

 佐伯の名刺はとても立派なものだった。手触りの良い質感の紙に、プロがデザインしたであろう美しい金魚の模様。
 連絡先は役所の住所と電話番号、区のドメインを使った専用のメールアドレス。そこに会長と書いてあるだけでとても立派な人物を想像してしまう。

「フリーアドレス使ったくせに……」

 表面だけ取り繕っても空しいだけだな、と秋葉はまとめてシュレッダーにかけることにした。
 そのまま室内を歩き回っていると、一つの大きな戸棚が目についた。

「店長。ここ開けていいですか?」
「どんぞ」
「見てから答えて下さいよ」
「見られて困るモンなんてないよ~。困る物は金庫の中さっ!」
「結構まともな大人ですよね、店長って」

 着物を羽織っていたり喋り方が妙だったりはするが、意外と常識人なところもある。
 洗濯物は全てクリーニングでそれ以外は捨てるくらいのことをしそうなイメージがあったが、意外と洗濯は自分でやっているのだ。
 棚を開けて回ればおかしなものが出て来るのじゃないかと期待をしたが、基本的に物がない。あるとしたら購入時に付属していた思われる余分なビスと説明書の入った小さな透明のビニール袋くらいだ。
 ここにも同じくビス入りのビニール袋があるだけだ。
 見るだけ無駄な気はしてきたが、とにかく把握をしようとあちこちを開けて回ると、リビングの片隅にやけに大きな戸棚があった。それもガラステーブルの真上という危なっかしい位置だ。
 何の気なしに中を覗いたが、秋葉はびくりと震えた。

「これ、もしかして……」

 そこにあったのは金魚鉢だった。それも両手で抱えても余りあるほどの大きさだ。
 ――一体何だこれは。

「そうだよ。それが僕の秘密さ」
「うわっ」

 そっと金魚鉢に手を伸ばしたが、その手を後ろから握られた。
 振り返り見上げると、叶冬は怪しく微笑んでいる。

「約束だったね。うちに来たら僕の秘密を教えてあげると」
「……いいんですか?」
「いいともさ。僕ばかりアキちゃんの秘密を知ってるんじゃフェアじゃないだろう?」

 叶冬は秋葉の手を握ったまま、まるで金魚鉢を見る専用とでも言うかのように真向かいに置いてあるソファへ腰かけた。

「金魚鉢の前に僕の昔話をしよう。少し長くなるけど聞いてくれるかい?」
「……はい」
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