(三)

文字数 1,495文字

「かなちゃん! アキちゃん!」

 女の声に意識を揺さぶられ目を開けた。
 目の前にいたのは紫音だった。ぼろぼろと涙を流して叶冬にしがみ付いている。叶冬はどこかぼんやりとしていた。

「どうしたの二人とも! こんなところで揃って倒れてるなんて!」
「倒れて……?」

 言われてみると頭が痛いような気がした。叶冬もいてて、と頭を抱えている。
 どうやらここは黒猫喫茶のようだ。見慣れた店内はいつもとなんら変わりがない。

「アキちゃん大丈夫かい? 具合は?」
「大丈夫です。ここ黒猫喫茶ですよね」
「ああ。どうやら戻ってきたんだな」
「はい。不思議ですね。金魚屋って魔法みたいなことばっかりだ」
「空飛ぶ金魚自体が魔法じみて――……ん?」
「え?」

 秋葉と叶冬は顔を見合わせ、自分で言った言葉を反芻した。

「金魚屋?」
「アキちゃん、金魚屋を覚えてるのかい?」
「はい。あれ? 金魚屋のことは忘れるんじゃなかったんですか?」
「そう言っていたね……」
「でも、行きましたよね。金魚屋……」
「帰って来たからには行ったね……」
「あの女の人のこと覚えてます?」
「八重子だろう? 少年の方は?」
「宮村夏生さん」
「だよねえ……」

 弔いを終えたら全てを忘れると、確かに八重子も夏生もそう言っていた。
 だからその覚悟をしたのに、秋葉の記憶にはしっかりとあの奇天烈な八重子と童顔の夏生が刻まれている。
 けれどここはどう見ても黒猫喫茶だ。目の前の紫音こそここが現実の黒猫喫茶である証拠でもある。

「紫音。僕はちょっと出かけてくるよ」
「え!? 駄目よ! 倒れたんでしょう!?」
「大丈夫だよ。アキちゃんはどうする?」
「行きます」
「アキちゃんまで!?」
「大丈夫だよ。直ぐに帰って来るから」

 紫音はしきりに駄目だと叫んでいたが、叶冬と秋葉はそれを振り切って飛び出した。
 けれどあそこへは新幹線を乗り継いでいかなくてはいけない。移動時間が歯がゆくて、目的地へ到着したころにはすっかり暗くなっていた。

「Cafe Chat Noir……」
「金魚屋じゃないですね」
「なにか特殊な条件を満たさないと現れないのか」
「でも宮村さんは普通に歩いてましたよ」
「やはり招かれないと入れないのか」

 やはり生者はそうそう関わることを許されないのだろう。
 しかしこのまま仕方ないですねと引き下がることもできない。けれどどうしたらよいかも分からずにいると、ふいに秋葉の電話が鳴った。

「何だよこんな時に――あれ?」
「どうしたんだい?」
「俺のスマホからです。二台持ちなんですけど、どっかに一台落としてたのかな」
「拾い主からかな。出た方が良いよ」
「はい。ちょっと失礼します」

 手元にあるのは自分で購入したスマートフォンで、落としたのは母が用意した当初の物だ。母と歩み寄ろうと思い始め、再び電源を入れ使えるようにしておいたのだ。
 そんなものをまさかいきなり落としてるなんて呆れてしまう。
 秋葉は自分に溜め息を吐きながら受話ボタンをタップした。

「もしもし」
『……』
「もしもし?」

 もしもし、と何度も声を掛けるが相手は何も言ってこない。

「出ないのかい?」
「無言電話かな」
「拾っておいてかい? んや? 何か音がするよ」
「本当ですか?」

 聴こえないな、と秋葉はスピーカーに切り替えた。すると確かにどたばたと何かが暴れ回っているような、騒いでいるような声が聴こえてくる。
 通話主は相変わらず何も喋らないが、次第に背後の叫び声が大きくなり――

『こらぁ! なっちゃんそれを返せぇ!』

 それはとても聞き覚えがあり、叫ばれたあだ名にも覚えがあった。

「「金魚屋の八重子!?」」

 そう叫んだ途端、ゆらりと空間が揺れた。
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