(二)
文字数 5,115文字
八重子は叶冬が羽織っている着物を乱暴にはぎとるとぽいと捨てた。捨てられたそれはまるで八重子の上質な着物の偽物のようだった。
八重子は席を立つと、奥にある扉へ手を掛けた。そこには『葬儀場』とプレートが貼られている。
これからやるのが金魚を弔う儀式のようなものだとしたら、そこはまさしく葬儀場だ。
「さあさあ歩け歩けぇ」
この先にどんな恐ろしいものが待ち構えているかと秋葉は身構えたが、一歩踏み込み歩き始めたそこは何の変哲もない廊下だった。少しばかりひやりと空気が冷たくて、ふいに叶冬の金魚屋が思い出された。
八重子ふんふんと歌にもなっていない歌を口ずさみながら八重子はスキップしていたが、突然何かが秋葉の足元をひゅんとすり抜け八重子にくっついた。
それは少年だった。十歳くらいだろうか。幼いながらに端正な顔立ちをしていて、それは八重子によく似ている。
「おお、どうした。稔。甘えん坊の寂しん坊かい」
「弟さんですか?」
「そうだよ。可愛いだろう。可愛くてたまらないだろう」
八重子はひょいと弟を抱き上げた。可愛い可愛いと頬ずりをしている姿は金魚屋などという肩書などもたないただの姉だった。
八重子が姉の顔をしたのは意外だったが、それ以上に血縁がここの不思議な店にも存在するということに驚いた。夏生はその素性からしても他人であろうことは想像できた。何らかの理由でここにいるだけなのだろう。
一体どういう店なんだと首を傾げていると、八重子がさあ着いた、と大きな扉の前に立った。従者のように夏生が前に出て扉を開く。
するとそこにあったのは真夏の空のように真っ青な一面の水でできた壁と、その中でルビーのように赤く輝くものがあった。金魚だ。数多の金魚が輝きを放ちながら泳いでいる。
「水槽だ。壁が一面」
「これが金魚屋の弔うべき魂たちさ。一番右側の水槽にいるのは富が沼の金魚たち」
「あのモールの塊!?」
「うん。俺が回収したんだ。回収ってのも味気ないから救うと掬うを掛けて金魚すくいって呼んでる。どう?」
「そんな余計な洒落っ気は出さんでよろしいっつってんのにぃ」
金魚すくいと聞いて、神威が見せてくれた動画を思い出した。
たしかあの動画の中で『今日こそ金魚すくいに行かないと。結構な数飛んでるんだよ、あそこ』と言っていた。ではあのころから夏生はこの仕事をしているということだ。
「もしかして少しずつ連れてくるんですか?」
「そうだよ。何しろ金魚帖と照らし合わせながらだから大変でさ」
「それでか……」
富が沼の金魚の塊は見るたびに小さくなっていた。そして動画に映っていた夏生は何か数えるようにしていたが、あれは金魚すくい中だったのだ。
それに夏生は『御縁神社付近の地区担当の金魚屋店主が出張中』と言っていた。それに『金魚帖には回収すべき金魚が出てくる』というのは、金魚帖に沿って金魚すくいをする人間が他にもいるということではないだろうか。
「……そっか。じゃあ別に僕が金魚に何かしたから消えちゃったわけじゃないんだ」
「違うよ」
「そっか。よかった」
「よかった? なんでだい? 別にアキちゃんには関係無いだろうが」
「そうですけど。でも魂を無意識に消してたなら申し訳ないなと思って」
「っへぇ~! アキちゃんは優しい子だあね!」
「そ、そうですか? 普通そう思いませんか」
「思わないよぉ。思うはずがない。だって金魚屋は弔うだけで金魚に情は持たないものさ」
「秋葉君は金魚屋じゃないですよ」
「ああいえばこういう。なっちゃんは本当にうるさい」
「そうは言っても俺は生者寄りですし」
生者寄りというのはどういう意味だろうか。そもそもこの少年は宮村夏生本人なのだろうか。どうみても四十五歳ではない。それに叶冬も一目で八重子を記憶にある女性だと断定したが、もし出会ったのが自殺未遂の時だとしたら、それも二十年近く昔の話だ。八重子は若く見積もっても二十代前半だ。当時もこの姿でそこから二十年ともなれば八重子も四十を過ぎている可能性がある。
若作りですむ容姿ではない。じいっと二人を見つめていると、それに気づいた夏生がクスッと笑った。
「金魚屋の中は時が緩やかなんだ。生者とは刻む時が違う。俺は大学の時に金魚屋に入ったからそこで止まってる」
「大学!?」
「そうだよ。大学一年だったかな。二年かな。そのくらいだよ」
「まさか……」
「信じられない? でも本当だよ」
信じられない。どうみても、どうみても夏生は――
「……高校生ではなくて?」
「は?」
「いえ。微妙に幼いからてっきり高校生くらいかと」
「は!?」
「あっはっは! ひゃーははははは!」
「八重子さん!」
「なっちゃんは子供みたいな顔をしてるけどれっきとした成人さ! あはははは! あーははは!」
「そんなに笑うことじゃないでしょう! 童顔なだけですよ!」
「じゃあ同じくらいかあ。絶対高校生だと思った」
「ひーひひひっ! ひゃははは!」
夏生は顔を真っ赤にして怒り、八重子はじたばたと暴れながら笑い転げた。
秋葉もつられて笑ってしまったが、隣の叶冬は無言のまま八重子を睨みつけていた。決して笑っていられる状況ではないのは秋葉も分かっているが、この妙に人間っぽい二人を見ていると金魚なんていうものは夢のように感じてしまっている。
けれど叶冬にとっては消えた己の記憶と幼馴染の行方が隠されているのだ。とても笑う気分にはなれないだろう。秋葉はきゅっと口を結んで俯いた。
「なんだいなんだい。二人して暗い顔をして」
「さっさと進めろ」
「おお、怖い。あんなに可愛かったのにねえ」
「ごめんごめん。そうだね。金魚の弔いを始めようか」
「あの、それって何をどうするんですか?」
「これは見た方が早いよ。まずはその水槽分をやるから見てて。八重子さん」
「へぇ~いへいっ」
「秋葉君と叶冬君はどっかに掴まって。引っ張られるから」
「え? は、はい」
どっかと言われても、とあたりをきょろきょろしていると、叶冬が後ろから抱きしめるようにして秋葉を自分の身体に固定し、自分は扉の取っ手に手を掛けている。
「……妙なことが起きたらすぐに外へ出るんだよ」
「は、はい」
夏生がそんな危ないことを仕掛けてくるとは思えなかった。
けれど叶冬は、外に飛び出せるよう心積もりをしているんだよ、と逃げる姿勢を整えるよう繰り返していた。
叶冬は扉前に立ち、扉を背にするのではなく扉を向くようにと言った。何かあった時すぐに逃げられるようにということだろう。
夏生の方から追ってこれるのなら逃げる意味はないかもしれないが、それでも叶冬は秋葉を逃がせるような体勢を崩さない。
秋葉がぎゅっと叶冬に掴まると、夏生は微笑ましいものを見るように微笑んだ。それはまるで秋葉達を大切なものだと思ってくれているようにも見えた。
一方の八重子は秋葉と叶冬のことなど気にもせず、どこに持っていたのかノートパソコンを立ち上げ何かを打ち込んでいる。魂だの空飛ぶ金魚だのという不可思議な物に囲まれているくせに、タッチタイピングでキーボードを叩く速度はかなり早い。見た目のイメージでは一本指で目的のキーを探して回りそうなのに、慣れた手つきでカードを挿入したりUSBメモリを取り換えたりしている。そして一本のケーブルをノートパソコンに挿し、その反対側を何処へ挿すのかと思ったら、なんと水槽の足元にカチリとはめ込んだ。そこにはカードスロットもあり、カシュッと一枚のカードを差し込んだ。
カードにUSBにケーブル、それはあの金魚鉢を思い出させた。叶冬も同じことを思ったのか、ぎゅっと強く秋葉を抱え込んだ。
「さあ、金魚の弔いだ」
八重子は両手を広げて天を仰いだ。それを合図にごおおと地響きがして、抱きかかえてくれている叶冬の腕にさらに力が込められた。
夏生は好きですねそれ、と呆れたように笑っている。まるでなんでもないことのように。
そして八重子がちらりとこちらを見てにたりと笑い水槽を指差した。
――見ておいで。
言葉にはしなかったけれどそう言っているのが分かった。じっとケーブルの差し込まれた水槽を見つめていると、次第に水が渦を巻き始めた。
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
「これは……」
「そうだ。君が一度経験したことだよ、かなちゃん」
「経験って――うわっ!」
「秋葉!」
秋葉は何かに足を引っ張られ、がくんと膝が折れてしまい床に倒れ込んだ。
ガシャンと何かが落ちて壊れたような音がして、叶冬は慌てて抱きかかえてくれたがそれでも何かに足が引っ張られる。必死に叶冬にしがみ付いていると、次第に地鳴りは収まり秋葉の身体もふっと軽くなった。
「大丈夫か!?」
「は、はい。もう平気です。今のは……」
「近くにいると巻き込まれるんだよ。二人とも弔われるべき魂を持っているからね」
「二人? 店長もですか?」
「かなちゃんは特殊の特殊なのだ。まあ後で説明してあげるよ。それよりほら、見てごらん」
八重子が指差したのは水槽だ。そこには大量の金魚が泳いでいた。泳いでいたはずだった。
「消えた!?」
「弔ったのさ」
「昇天したってことですか?」
「弔ったんだよ」
「でもあなた何もしてないじゃないですか」
「したよ。葬儀システムのロックを解除してスイッチをオンにするという大いなる仕事をね」
「システム?」
「そうさ。金魚の弔いは情もなくこのシステムで自動的に処理されるのさ」
八重子はぺちぺちと水槽を叩いた。
水槽の足元にはLEDランプがついていて、カードを抜けというかのように赤いランプが点滅している。
「……あの、何かこう、八重子さんに特殊な力があるとかではなく?」
「ないよ。僕の仕事はセキュリティカードの管理とパソコンとシステムのパスワードを定期的に変更することさ」
「本当は金魚すくいもだけどね。それは俺がやってるから八重子さんの仕事はそれだけ」
――なんだそれは。
何かがおきるのだろうとは思っていた。だがそれはきっと魔法のような超常現象を想像していた。それがまさかこんな機械仕掛けであっさりと終わってしまうとは思ってもいなかった。
きっと叶冬もそうだろうと見上げたが、叶冬は驚いた様子が無い。
「そうか。金魚鉢はこれのモバイル端末か」
「お! 正解!」
「何ですかそれ。どういうことですか」
分かんないよね、と夏生は笑って後ろの戸棚を開けた。そこにはずらりと金魚鉢が並んでいる。とても大きくて、それは叶冬の金魚鉢とそっくりだった。
「秋葉君さ、叶冬君の金魚鉢使ったでしょ」
「はい。でも何も起きませんでしたよ」
「倒れなかった? 倒れて気分が良くなったり」
「……しました」
「それは水瀬渚沙の魂が少しだけ弔われたんだよ。金魚鉢は持ち運び式の葬儀システム。一匹単位でしかできないけど弔うことができるんだ」
あの時、秋葉は体から何かが奪われたような感覚があった。それが水瀬渚沙の魂だったのだ。
「実感ない? まあそれでいいよ。どうせ金魚屋を出たら全て忘れるからね」
「この出来事を全てですか?」
「そうだよ。金魚のことも金魚屋のことも全て忘れる」
「……そうか。それで鹿目浩輔は記憶が途切れてるのか」
鹿目浩輔は夏生の部屋に泊った時に倒れたと言っていた。
きっとその時に金魚屋へ招かれ葬儀をし、そして帰ったのだろう。おそらく彼にも金魚が憑いていて、夏生はそれを助けたのだ。
「ではやるよ。アキちゃんは金魚鉢を持ってそこに立つがいい」
「これで俺を弔うんですか?」
「水瀬渚沙と石動春陽をだよ。水槽に入ってない金魚は外部からアクセスできる金魚鉢じゃないと弔えない」
「春陽! そうだ! 春陽はどうなるんですか! まだいるんですよね!?」
「どうって、そりゃあ昇天するよ」
「け、けど、そんな……」
「可哀そうかい?」
「だって……」
ほんのわずかしか生きることのできなかった弟。秋葉はその顔も声も知らない。本当に存在した証を、何一つ秋葉は見たことが無い。両親の想像に過ぎないのではないかとすら思うこともあった。
けれどそんな言葉を交わしたことのない兄を守り続けてくれていた。
それをこんな機械ひとつで消されてしまうなんて、秋葉は悔しくてたまらなかった。
嫌だ、そう言おうとしたが、それをかき消すようにガチャンと大きな音がした。どこかでガラスが割れているようだ。
「しまった。逃げたね」
「また放置しましたね」
「面倒なんだあよ。君らちょいちょいと待っていておくれよ」
ああいやだ、と八重子は声に出してため息を吐きながら夏生と弟を引き連れてどこかへ向かった。
秋葉と叶冬は顔を見合わせ頷いて、八重子たちの後を追った。
八重子は席を立つと、奥にある扉へ手を掛けた。そこには『葬儀場』とプレートが貼られている。
これからやるのが金魚を弔う儀式のようなものだとしたら、そこはまさしく葬儀場だ。
「さあさあ歩け歩けぇ」
この先にどんな恐ろしいものが待ち構えているかと秋葉は身構えたが、一歩踏み込み歩き始めたそこは何の変哲もない廊下だった。少しばかりひやりと空気が冷たくて、ふいに叶冬の金魚屋が思い出された。
八重子ふんふんと歌にもなっていない歌を口ずさみながら八重子はスキップしていたが、突然何かが秋葉の足元をひゅんとすり抜け八重子にくっついた。
それは少年だった。十歳くらいだろうか。幼いながらに端正な顔立ちをしていて、それは八重子によく似ている。
「おお、どうした。稔。甘えん坊の寂しん坊かい」
「弟さんですか?」
「そうだよ。可愛いだろう。可愛くてたまらないだろう」
八重子はひょいと弟を抱き上げた。可愛い可愛いと頬ずりをしている姿は金魚屋などという肩書などもたないただの姉だった。
八重子が姉の顔をしたのは意外だったが、それ以上に血縁がここの不思議な店にも存在するということに驚いた。夏生はその素性からしても他人であろうことは想像できた。何らかの理由でここにいるだけなのだろう。
一体どういう店なんだと首を傾げていると、八重子がさあ着いた、と大きな扉の前に立った。従者のように夏生が前に出て扉を開く。
するとそこにあったのは真夏の空のように真っ青な一面の水でできた壁と、その中でルビーのように赤く輝くものがあった。金魚だ。数多の金魚が輝きを放ちながら泳いでいる。
「水槽だ。壁が一面」
「これが金魚屋の弔うべき魂たちさ。一番右側の水槽にいるのは富が沼の金魚たち」
「あのモールの塊!?」
「うん。俺が回収したんだ。回収ってのも味気ないから救うと掬うを掛けて金魚すくいって呼んでる。どう?」
「そんな余計な洒落っ気は出さんでよろしいっつってんのにぃ」
金魚すくいと聞いて、神威が見せてくれた動画を思い出した。
たしかあの動画の中で『今日こそ金魚すくいに行かないと。結構な数飛んでるんだよ、あそこ』と言っていた。ではあのころから夏生はこの仕事をしているということだ。
「もしかして少しずつ連れてくるんですか?」
「そうだよ。何しろ金魚帖と照らし合わせながらだから大変でさ」
「それでか……」
富が沼の金魚の塊は見るたびに小さくなっていた。そして動画に映っていた夏生は何か数えるようにしていたが、あれは金魚すくい中だったのだ。
それに夏生は『御縁神社付近の地区担当の金魚屋店主が出張中』と言っていた。それに『金魚帖には回収すべき金魚が出てくる』というのは、金魚帖に沿って金魚すくいをする人間が他にもいるということではないだろうか。
「……そっか。じゃあ別に僕が金魚に何かしたから消えちゃったわけじゃないんだ」
「違うよ」
「そっか。よかった」
「よかった? なんでだい? 別にアキちゃんには関係無いだろうが」
「そうですけど。でも魂を無意識に消してたなら申し訳ないなと思って」
「っへぇ~! アキちゃんは優しい子だあね!」
「そ、そうですか? 普通そう思いませんか」
「思わないよぉ。思うはずがない。だって金魚屋は弔うだけで金魚に情は持たないものさ」
「秋葉君は金魚屋じゃないですよ」
「ああいえばこういう。なっちゃんは本当にうるさい」
「そうは言っても俺は生者寄りですし」
生者寄りというのはどういう意味だろうか。そもそもこの少年は宮村夏生本人なのだろうか。どうみても四十五歳ではない。それに叶冬も一目で八重子を記憶にある女性だと断定したが、もし出会ったのが自殺未遂の時だとしたら、それも二十年近く昔の話だ。八重子は若く見積もっても二十代前半だ。当時もこの姿でそこから二十年ともなれば八重子も四十を過ぎている可能性がある。
若作りですむ容姿ではない。じいっと二人を見つめていると、それに気づいた夏生がクスッと笑った。
「金魚屋の中は時が緩やかなんだ。生者とは刻む時が違う。俺は大学の時に金魚屋に入ったからそこで止まってる」
「大学!?」
「そうだよ。大学一年だったかな。二年かな。そのくらいだよ」
「まさか……」
「信じられない? でも本当だよ」
信じられない。どうみても、どうみても夏生は――
「……高校生ではなくて?」
「は?」
「いえ。微妙に幼いからてっきり高校生くらいかと」
「は!?」
「あっはっは! ひゃーははははは!」
「八重子さん!」
「なっちゃんは子供みたいな顔をしてるけどれっきとした成人さ! あはははは! あーははは!」
「そんなに笑うことじゃないでしょう! 童顔なだけですよ!」
「じゃあ同じくらいかあ。絶対高校生だと思った」
「ひーひひひっ! ひゃははは!」
夏生は顔を真っ赤にして怒り、八重子はじたばたと暴れながら笑い転げた。
秋葉もつられて笑ってしまったが、隣の叶冬は無言のまま八重子を睨みつけていた。決して笑っていられる状況ではないのは秋葉も分かっているが、この妙に人間っぽい二人を見ていると金魚なんていうものは夢のように感じてしまっている。
けれど叶冬にとっては消えた己の記憶と幼馴染の行方が隠されているのだ。とても笑う気分にはなれないだろう。秋葉はきゅっと口を結んで俯いた。
「なんだいなんだい。二人して暗い顔をして」
「さっさと進めろ」
「おお、怖い。あんなに可愛かったのにねえ」
「ごめんごめん。そうだね。金魚の弔いを始めようか」
「あの、それって何をどうするんですか?」
「これは見た方が早いよ。まずはその水槽分をやるから見てて。八重子さん」
「へぇ~いへいっ」
「秋葉君と叶冬君はどっかに掴まって。引っ張られるから」
「え? は、はい」
どっかと言われても、とあたりをきょろきょろしていると、叶冬が後ろから抱きしめるようにして秋葉を自分の身体に固定し、自分は扉の取っ手に手を掛けている。
「……妙なことが起きたらすぐに外へ出るんだよ」
「は、はい」
夏生がそんな危ないことを仕掛けてくるとは思えなかった。
けれど叶冬は、外に飛び出せるよう心積もりをしているんだよ、と逃げる姿勢を整えるよう繰り返していた。
叶冬は扉前に立ち、扉を背にするのではなく扉を向くようにと言った。何かあった時すぐに逃げられるようにということだろう。
夏生の方から追ってこれるのなら逃げる意味はないかもしれないが、それでも叶冬は秋葉を逃がせるような体勢を崩さない。
秋葉がぎゅっと叶冬に掴まると、夏生は微笑ましいものを見るように微笑んだ。それはまるで秋葉達を大切なものだと思ってくれているようにも見えた。
一方の八重子は秋葉と叶冬のことなど気にもせず、どこに持っていたのかノートパソコンを立ち上げ何かを打ち込んでいる。魂だの空飛ぶ金魚だのという不可思議な物に囲まれているくせに、タッチタイピングでキーボードを叩く速度はかなり早い。見た目のイメージでは一本指で目的のキーを探して回りそうなのに、慣れた手つきでカードを挿入したりUSBメモリを取り換えたりしている。そして一本のケーブルをノートパソコンに挿し、その反対側を何処へ挿すのかと思ったら、なんと水槽の足元にカチリとはめ込んだ。そこにはカードスロットもあり、カシュッと一枚のカードを差し込んだ。
カードにUSBにケーブル、それはあの金魚鉢を思い出させた。叶冬も同じことを思ったのか、ぎゅっと強く秋葉を抱え込んだ。
「さあ、金魚の弔いだ」
八重子は両手を広げて天を仰いだ。それを合図にごおおと地響きがして、抱きかかえてくれている叶冬の腕にさらに力が込められた。
夏生は好きですねそれ、と呆れたように笑っている。まるでなんでもないことのように。
そして八重子がちらりとこちらを見てにたりと笑い水槽を指差した。
――見ておいで。
言葉にはしなかったけれどそう言っているのが分かった。じっとケーブルの差し込まれた水槽を見つめていると、次第に水が渦を巻き始めた。
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
「これは……」
「そうだ。君が一度経験したことだよ、かなちゃん」
「経験って――うわっ!」
「秋葉!」
秋葉は何かに足を引っ張られ、がくんと膝が折れてしまい床に倒れ込んだ。
ガシャンと何かが落ちて壊れたような音がして、叶冬は慌てて抱きかかえてくれたがそれでも何かに足が引っ張られる。必死に叶冬にしがみ付いていると、次第に地鳴りは収まり秋葉の身体もふっと軽くなった。
「大丈夫か!?」
「は、はい。もう平気です。今のは……」
「近くにいると巻き込まれるんだよ。二人とも弔われるべき魂を持っているからね」
「二人? 店長もですか?」
「かなちゃんは特殊の特殊なのだ。まあ後で説明してあげるよ。それよりほら、見てごらん」
八重子が指差したのは水槽だ。そこには大量の金魚が泳いでいた。泳いでいたはずだった。
「消えた!?」
「弔ったのさ」
「昇天したってことですか?」
「弔ったんだよ」
「でもあなた何もしてないじゃないですか」
「したよ。葬儀システムのロックを解除してスイッチをオンにするという大いなる仕事をね」
「システム?」
「そうさ。金魚の弔いは情もなくこのシステムで自動的に処理されるのさ」
八重子はぺちぺちと水槽を叩いた。
水槽の足元にはLEDランプがついていて、カードを抜けというかのように赤いランプが点滅している。
「……あの、何かこう、八重子さんに特殊な力があるとかではなく?」
「ないよ。僕の仕事はセキュリティカードの管理とパソコンとシステムのパスワードを定期的に変更することさ」
「本当は金魚すくいもだけどね。それは俺がやってるから八重子さんの仕事はそれだけ」
――なんだそれは。
何かがおきるのだろうとは思っていた。だがそれはきっと魔法のような超常現象を想像していた。それがまさかこんな機械仕掛けであっさりと終わってしまうとは思ってもいなかった。
きっと叶冬もそうだろうと見上げたが、叶冬は驚いた様子が無い。
「そうか。金魚鉢はこれのモバイル端末か」
「お! 正解!」
「何ですかそれ。どういうことですか」
分かんないよね、と夏生は笑って後ろの戸棚を開けた。そこにはずらりと金魚鉢が並んでいる。とても大きくて、それは叶冬の金魚鉢とそっくりだった。
「秋葉君さ、叶冬君の金魚鉢使ったでしょ」
「はい。でも何も起きませんでしたよ」
「倒れなかった? 倒れて気分が良くなったり」
「……しました」
「それは水瀬渚沙の魂が少しだけ弔われたんだよ。金魚鉢は持ち運び式の葬儀システム。一匹単位でしかできないけど弔うことができるんだ」
あの時、秋葉は体から何かが奪われたような感覚があった。それが水瀬渚沙の魂だったのだ。
「実感ない? まあそれでいいよ。どうせ金魚屋を出たら全て忘れるからね」
「この出来事を全てですか?」
「そうだよ。金魚のことも金魚屋のことも全て忘れる」
「……そうか。それで鹿目浩輔は記憶が途切れてるのか」
鹿目浩輔は夏生の部屋に泊った時に倒れたと言っていた。
きっとその時に金魚屋へ招かれ葬儀をし、そして帰ったのだろう。おそらく彼にも金魚が憑いていて、夏生はそれを助けたのだ。
「ではやるよ。アキちゃんは金魚鉢を持ってそこに立つがいい」
「これで俺を弔うんですか?」
「水瀬渚沙と石動春陽をだよ。水槽に入ってない金魚は外部からアクセスできる金魚鉢じゃないと弔えない」
「春陽! そうだ! 春陽はどうなるんですか! まだいるんですよね!?」
「どうって、そりゃあ昇天するよ」
「け、けど、そんな……」
「可哀そうかい?」
「だって……」
ほんのわずかしか生きることのできなかった弟。秋葉はその顔も声も知らない。本当に存在した証を、何一つ秋葉は見たことが無い。両親の想像に過ぎないのではないかとすら思うこともあった。
けれどそんな言葉を交わしたことのない兄を守り続けてくれていた。
それをこんな機械ひとつで消されてしまうなんて、秋葉は悔しくてたまらなかった。
嫌だ、そう言おうとしたが、それをかき消すようにガチャンと大きな音がした。どこかでガラスが割れているようだ。
「しまった。逃げたね」
「また放置しましたね」
「面倒なんだあよ。君らちょいちょいと待っていておくれよ」
ああいやだ、と八重子は声に出してため息を吐きながら夏生と弟を引き連れてどこかへ向かった。
秋葉と叶冬は顔を見合わせ頷いて、八重子たちの後を追った。