(三)

文字数 1,006文字

 金魚屋の男が向かったのは御縁神社だった。
 既に祭りは終わり屋台は片付けられている。中央の参道を抜け本殿の裏手に周り、そのまま境内を抜けるとこじんまりとした喫茶店が見えてきた。看板には『黒猫喫茶』と書かれている。金魚が彩る祭りをしていたのに『猫』とは何とも妙だ。
 喫茶店の入り口は商店街の横道に面しているが、街はずれだからか客はまったくいない。
 しかし秋葉が気になったのは喫茶店に隣接されている蔵だった。薄汚れていて造りは古めかしいが、蔵として使うにはあまりにも大きくて背が高い。
 一体何があるのか興味惹かれていると、金魚屋の男はその蔵へと向かって行った。

「中は冷える。これを羽織るといいよ」
「え、これをですか……」
「金魚屋の正装だよ。喜びたまえ」
「はあ……」

 無理矢理羽織らされたのは金魚屋の男が羽織っている女性用の着物だ。まさか正装だとは思わなかった。
 何となく嫌だなと思ったが、一歩踏み込んだ蔵は確かに上着が必要なくらい冷えていた。玄関のある小部屋は薄暗いが、抜けて奥へ入ると秋葉は思わず後ずさった。

「うわっ……!!」

 そこにあったのは水槽だった。
 どうやって手入れをするのか分からないほど高さがある水槽が壁を作っている。金魚が泳ぐそれらはおそらく祭りで使ったものだろう。
 水が窓から差し込む光を拡散していて、いつもなら恐ろしく感じる金魚にも見惚れるほど美しい。
 よく見れば足元に『順路』と書かれた小さな看板が立てられている。これは観賞用として公開されているのだろう。

「金魚屋って水族館だったんですね」
「いいや、金魚屋だよ」
「はあ。どうして金魚だけなんですか?」
「記憶だからさ」
「……金魚が好きなんですか?」
「いいや。忘れないためさ」
「何をですか?」
「記憶をだよ」

 誰の、とは聞かなくても分かった。どういう記憶なのかは分からないが、やはりこの男は金魚に謂れがあるのだ。
 謎かけのように煙に巻かれて秋葉の疑問は消化不良を起こしたが、そんなことは気にも留めず男は水槽に囲まれた通路をどんどん進んで行く。
 蔵の中をぐるりと回ったのか、男が扉を開けて出たのは喫茶店の真裏だった。そのまま喫茶店の裏口から中へ入ると、中は大正くらいの時代を思わせる落ち着いた雰囲気だった。もっと良い場所に建っていたら人気が出そうだ。
 見惚れてほうっとため息をついていると、するりと羽織っていた着物を回収されテーブル席に着席を促された。
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