第36話

文字数 1,287文字

 性被害者からの事情聴取ということで相馬と西川に変わり女性警官が2人、春花の病室に来ていた。大部屋が全て満室なため、個室に寝かされていた春花は、葵と女性警官の4人きりの部屋で事情聴取を受けた。

「木喪井喪太郎に襲われそうになったのではないですか?」

 この質問に春花は固まった。葵にも誰にも知られたくないことだったのだ。葵は青ざめていた。
「え……?襲われそうに……?」

 この反応を見て初めて春花が母親にも知られたくなかったのではないかと気付いた女性警官は「ごめんなさい」と謝りながらも、性被害のことに触れずに話を進めるのは不可能だから仕方ないと割り切って続けた。
「木喪井喪太郎は羽鳥さんが勝手に崖から落ちたのであって自分は何もしていないと言い張っています。靴跡などから我々は木喪井に抱きつかれた羽鳥さんが逃げようとして落ちたと見ています。違いますか?」

 だいたい合っている。合っているが胸を触られたことは言いたくなかった。陰木のときもそうだったが、性被害に遭うということは理屈ではどうしようもない嫌悪感が付きまとう。春花はそれを【皮膚細胞の一部の布越しにホモ・サピエンスの手が触れただけだ】と繰り返し自身に言い聞かせることで心を保ち、それは時間と共に忘れることが出来る。だがそこに『性被害者』という周りからの視線が加わると、自身にかけた洗脳が解けてしまい、心が保てなくなるのだ。
「……落ちた経緯は詳しく話さなくてはいけませんか?」
「木喪井を確実に裁きたいのなら羽鳥さんの証言は必要となります……」

 春花は考えた。あのとき突き落とされた訳では無くバランスを崩して崖から落ちた。その原因は木喪井喪太郎に羽交い締めにされ胸を鷲づかみにされたからだ。傷害のみで被害届を出す場合でも、女性警官の言う通り、どのみち崖に落ちるまでの経緯は話すしかないだろう。羽交い締めにされただけで他は何も無かったと押し通せればいいが、嘘をつき通せる自信がない。木喪井喪太郎が刑事事件を起こしたとなれば彼は退学にはなるだろうが、それと引き替えに春花がされたことも高校で噂になる可能性は高い。それは理路高校にとどまらず他校にも広まるかも知れない。そうなれば大学でも『性被害者』としての視線を浴び続けることになる可能性が出てくる。けれども喪太郎のことは許せない。春花はどうすればいいのか分からなかった。

「……話をするのは少し考えてからでもいいですか……?」

 この会話は病室の外で事情聴取が終わるのを待っている仁たちにも聞こえていた。皆その内容に言葉を失う中、凛花が「おねぇちゃん……」とつぶやきながら涙を流した。
 仁は静かでありながらも芯のある声で皆に言った。
「今聞いたことは他言無用だ」
 いつになく鋭い眼光を向ける仁に、天使、環奈、愛羅、詩歌、夏苗は背筋が冷たくなり生唾を呑んだ。その眼光からは尋常ならぬ憎しみや怒り――或いは殺意のようなもの――を感じたのだ。最初から誰にも言うつもりはないが、もし言えばただでは済まない気がしたのは皆同じだった。仁の裏の顔に気付いている快俐は複雑な気持ちでその様子を見ていた。
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