第51話

文字数 4,172文字

 綿貫ゆかは、母が大好きだった。
 寛大だが厳しい所には厳しい。礼儀作法というよりも、倫理や道徳感などを重んじる人だった。
 それで愛情は惜しげもなく注ぎ、家族の時間をとにかく大切にしていた。
 休みの日は一緒に遊び、イベントもこれでもかとたくさん行ってくれた。こと誕生日はゆかが引くほどに豪勢に行っていた。
「あなたが生まれてきてくれて、それだけでママは世界一の幸せ者なんだから」
 にっこりと笑顔を向けて来る母だった。
 父との記憶はない。祖父母もゆかたちにはまるで興味がないという様子で、顔を思い出そうとしても全く出てこないありさまだった。
 幼稚園では薫と出会い、家も隣合うので当然のように仲良くなった。
 薫の家は仕事の関係で両親が家にいないので、それでよくゆかの家で夕食を摂ったり、泊まったりもしていた。
 父という概念がない生活が当たり前だったゆかにとって、毎日が楽しく幸福だった。
 その時は知らなかったが、祖父母からの執拗な嫌がらせや、父の不貞行為など、母を煩わせる現実があったのだが、それをおくびにも見せない生活だった。
 そんな毎日の中で、突然父が現れた。
「なんの役にも立たないと思ってたが、お前たちにもやっと役目ができたぞ」
 ゆかが9歳の誕生日を迎える数日前の日だった。
 父は愛妾を家に連れて来た。大きく出た腹部には、綿貫家念願の男子がいるという。
 そこから緩やかに地獄への転落が始まった。
 母はまるで奴隷のように扱われた。数日後だったゆかの誕生会は取りやめになり、母は愛妾の世話を焼かされた。精神が不安定になりやすい性分だったらしく、呼吸ひとつでも目障りだと愛妾は母に暴力を振るうようになった。
 しかし母は「誰であろうと、子供は未来だから」と言ってやり返す事はなく、むしろストレスは胎児に悪いからと、八つ当たりを甘んじて受けて自分を捨てた男が連れ込んだ女の胎児のためにサンドバッグになっていた。
 最初こそは母だけだった攻撃の対処はいつしかゆかにまで向くようになった。
 露骨な暴力は、母の居ぬ間に起きた。
 母を折檻するのに使っていた木の棒で背中や腹を叩かれた。反撃してやろうかとも思ったが、母の教えを守り、止めた。
 しかしある日、ついに青あざができているのを母に見られてしまった。
 母は泣いてどうか娘だけはと、懇願した。土下座を強要され、躊躇せず頭を下げた。
 それを見てゆかは泣いて母を止めた。母の尊厳を踏みにじられるくらいなら、暴力なぞ甘んじて受けようと思った。大好きな母が頭を地べたにこすりつける姿なんて、見たくなかった。
 しかし気でも触れたような愛妾は、狂笑を上げながら母の頭を踏んでいた。
 神様。どうか、この人を止めてください。
 踏みにじり、鼻から血を吹き出した母の顔を見て、ゆかは必死に神に願った。
 そこで運命は少しだけゆかに力を貸してくれた。
 笑っていた愛妾は突然苦しみはじめると、一気に破水した。大きく動いた事で陣痛が来たのだ。
 それに気付いた母は、けがを負わされた相手だというのを忘れたのか、大慌てで救急車を手配し自分を踏みつけた相手を励ました。
 無事に子供が生まれると、今度は愛妾が疑心暗鬼にとらわれたのだ。
 我が子は愛おしい。しかし、自分は動けない。では自分が踏みにじり暴力を振るった相手は今はどうだ。
 半狂乱になる愛妾に、父は「子供は生まれた。お前に用はない」と興味の欠片もない目で見て、どこか知らない田舎へ放逐した。
 災厄が去ったと一安心していたゆか。母は気付かなくてごめんと何度も詫びて来た。幸い大した怪我もなかったので、ゆかは平気だと笑った。
 一方で母は何度も頭を踏みつけれたせいで、青あざだらけになっていた。鼻は折れ、歯はかけていた。
 しかし災難はまだ続いた。
 妾に子を産ませたとなっては、現代社会では風当たりがよくない。父は愛妾との子を母との子だと宣い、母を外へ連れ出すようになった。顔は見てくれが悪いとすぐさま優秀な整形外科へ連れて行った。
 そんな地獄が続き、10歳の誕生日。ゆかは高熱に倒れた。
 母は父に”大事な会合”とやらに取れていかれしまう。心細くて、久しぶりにわがままを言ったゆか。母はすぐに病院に連れて行ってと懇願したが、実娘になんの興味もない父は「放っておいてもいいだろう」と母を無理やり連れて行った。
 熱にうなされ、朦朧とする意識。ああ、死んじゃうかもしれない、と思うと、母との楽しい日常が走馬燈のように駆け抜け、知らず知らずの内に笑みがこぼれていた。
 その時駆けつけたのが、薫だった。
 学校に来ていないゆかを不審に思い、綿貫家に忍び込んでいたのだ。実をいうと中学生になるまで、薫はとんでもない御転婆で、どこで知りえたのか火薬の生成やピッキングの知識などで事件一歩手前のような出来事を多数起こしていた。
 そんな薫がお得意の悪さで侵入し、瀕死のゆかを発見し、即通報した。
 一命をとりとめたゆかだったが、もしあと少しでも薫が来るのが遅ければ、間違いなく命はなかった。
 そしてそんな時に、自分は愛すべき娘に何もしてやれなかったという自責。気丈だった母の心はついに折れてしまった。
 幸せだった時を永遠に繰り返す母は、父によって遠くの病院に監禁するように入院させられてしまった。
 母を失った喪失感。体面の為に生かされる毎日。
 一度は助けてくれた神も、二度目は微笑まなかった。
 虚無感でゆかまで壊れそうになる中、ついに”陽気で可愛いモノ好き”な綿貫ゆかという仮面を被るようになっていた。
 神への祈りは通じない。
 大好きは母を奪った運命を呪った。
 しかしそれでも何かに縋らなければ、仮面の中で腐り果ててしまうのが分かった。
 破壊衝動のままに行動し、母を苦しめた愛妾や、道徳の欠片も合い父のようになりたくなかった。
 すでに崩れ果て、めちゃくちゃになった心で、それでも必死に祈る事で、もう一度母が帰ってくるのを願い続けた。
 権力を振りかざし、尊厳を踏みにじる連中を見ると、実父や愛妾の顔が浮かぶ。激しい憎悪に駆られてしまう。
 一度薫の父とつながりがあるという家の男が、薫に迫ってきた事があった。
 適当にあしらっていた薫の態度に逆上した男は、暴力を振るってきた。
 その瞬間、ゆかの中で何かが切れた。
 気付いた頃には、薫が涙を流してゆかを羽交い絞めにして止めていた。
 いったいどんな力で殴ったのかすら覚えていない。ただ両手の骨が何本も折れていた。相手の顔面は見る影もないほど変形し、全身の至る所に骨折と打撲という大けがを負わせていた。
 この時「ああ、自分もあの異常者の子供なんだ……」と妙な合点がいった。それと自分の心ももうぐずぐずに壊れてしまっているんだと理解した。
 そんな二面性を背負ったままの生活が続いて、二年生へ進級して出会ったのが美鈴だった。
 薫から両親は事故で亡くなっていると聞いた。どこか浮世離れした雰囲気は、うっかりすると溶けて消えてしまいそうな程儚い。最初は仮面の自分がちょっかいを出し始めた。
 いつしか彼女を守らないと、という新しい縋り付く先になっていた。
 ただの執着なのだ。壊れてしまった自分が、正気を保つために縋っているだけなのだ。
「それでも、お前らは、やっちゃならねぇ事をした。人が、人を踏みにじってんじゃねえよ」
「なに?」
 むくりとゆかは体を起こしていた。
 魔装具はいつの間にか消失していた。
「まだ生きている? これは、驚きました」
 薔薇侯爵は初めて驚きの表情を見せた。
「アタシは、お前をぶっ飛ばす。道理を弁えない野郎は、絶対許さない」
「……それでも、貴女になにができるというのですか? 脆弱な魔女よ」
「言ったろう。アンタをぶっ飛ばす。それでいい」
 度重なる雷撃。生きているのが奇跡、というよりも、”生き返った奇跡”というのが正しい。
「アタシは、あんたをぶっ飛ばす」
 魔法の使い方なんて、正直良く分からない。
 何がどうなっているのか、考えてもゆかにはわからない。
 ただひとつ、目の前の敵をぶっ飛ばす。それだけ決まっていれば、それだけでいい。
 魔力がみなぎる。
 魔法が構築される。
 魔装具が発露し、ゆかの体を宙に浮かせた。
「なぜ? 私は許可をしていない」
 わが目を疑った薔薇侯爵は、もう一度魔法を禁じる術を展開させた。
 しかしゆかは落ちない。
「アタシのターンだ。歯ァ食いしばれよ」
 加速を、始めた。
「何度やっても、同じ。貴女の槍が私に届く因果は存ざ」
 ぶちぶちぶち音を立てて、何かが薔薇侯爵の腹にめり込んだ。
 視線を落とすと、精緻な彫刻が彫られた何かが、自らの腹部にめり込んでいた。
 そして勢いに任せ、体が後ろに吹き飛ぶ。
「な、ぜ」
 口から血の塊が噴き出した。
 すぐさま体を治癒する魔法が発現し、負傷を癒す。空間を歪め、姿勢を正そうとしたした瞬間、背後から何かに殴打された。
 頭蓋骨が卵の殻のように割れて、中身が飛び散る。
 それでも自分が死んだことで発動する再生の魔法が再び体を直した。
 魔法を体系化し運用法を構築した。当時の皇帝に取り入り、宮廷魔術師となり一万年。
 以来なかった、動転という精神状態。
 何が起きている。
 脳や魔法演算のための補助脳、精神的に統合されている配下の魔法使いなど、すべての演算力を駆使して、現実を確認する。
 殴打されている。
 そんな事は分かっている。どうして。
「私に振れる許可をしていない。この部屋で魔法を行使する許可もない。なぜ」
「超えろ。世界を! お前の因果なんて、踏み越えて進む! アタシの怒りは、(おまえ)のルールを超える!」
 許可がない以上はできないのだ。それ以上の事がない、因果関係が結べないため、できないのだ。
「ばかな、馬鹿なぁ ッ!」
 反撃の為の魔法を構築しようにも、その瞬間に頭を割られて失敗する。なんども貫かれ殴打されることで、いつの間にか補助脳まで壊れてしまっている。
「超えろ! 不条理を超えろ! アタシの槍は、アタシは世界を置きざりにして駆け抜ける!」
 徐々に削られていく意識。それは打擲の感覚が狭まっているからだ。
 壊される速さが、再生速度をとうに上回っている。
 このままいけば、遠くなく、殺される。
 割られたままの頭が再生しない。このままでは
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