第8話

文字数 3,256文字

 授業は普段よりも少し早く終わった。昨日美鈴は不審者に襲われたという事になっているので、部活動や委員会活動は全面中止になり、全校生徒は即座に帰るように指示された。
 後頭部に手を回して頬を膨らませたゆかと、手提げが妙に膨らんだ薫が美鈴の左右を歩いている。今は下校の最中だ。
「はぁーつまんないなぁ」
 不平を垂らすゆかは、部活動を誰よりも熱心に取り組んでいる。
 陸上部に所属し、女子短距離走のエースである彼女は、教師や生徒からは羨望の眼差しを向けられる存在だ。
 なによりも走っている彼女はひどく妄信的で、まるで何かを求めて祈るようだと詩人かぶれの部活顧問がたたえるほどだった。本人は苦笑して否定したが、美鈴と薫ともにそのセリフに賛同している。
 不平を漏らすゆかを横目で見た美鈴は、ふと学級委員室に寄ってから下校した薫の手荷物が気になった。
「天沢さん、その荷物なに?」
 小首をかしげて、薫の手提げを覗き込んだ美鈴。その突然の動きに、危うく追突しかけた薫は慌てて足を止めた。
「ん? これ?」
 薫が少し掲げて見せると、こくこくうなずいた。その仕草を見ていたゆかが、荒い息遣いでじっと美鈴を見つめていたので、薫は顔をしかめて手で払う。
「これは、学級委員の資料よ。先生に頼まれてたの」
 そう言って中を少し見せてくれた。紙束が入ったプラスチックのケースが三つ入っていた。それだけで電話帳よりかは少し薄い程度の量である。
「す、すごいね……」
 その量を任せる教師も教師だが、それをこなしてしまう薫もいささか常軌を逸している気がした美鈴は、すこし困った顔で賞賛の言葉を送った。ゆかはそんなことは気にも留めず、だらしない顔で美鈴を見ている。
「そういえば、今日は大丈夫なの?」
 頬を上気させていたゆかが、突然思い出したようにふたりの会話に割り込んできた。一瞬なんのことか分からなかったふたりは首をかしげた。
「ほら、みーちゃんちに泊まりに行こうって言う話し」
 そこでああと声を上げて手を打った。
「でも、昨日の今日だし」
 薫が眉根を寄せると、三人の横に車が突然止まって、運転席から人間がひとり飛びだすように降りてきて三人の前に来た。
 怪訝に思った二人をよそに、美鈴はバツの悪い顔をして俯く。見るからにボディーガードという格好をした大柄な男は、その場で膝を付いた。
「お嬢! お帰りの時はお電話をとッ!」
 活気のいい声で言いながら、彼女がひとりではないことにだいぶ遅れて気がついたらしい。言葉を切って左右の少女をじっと見て、にかっと笑った。強面の部類だが、笑うと少年のような顔になった。
「お嬢のご学友ですね! いつもお世話になっています。私は逆泉家で下働きをさせていただいております、桐生遊太と申します」
 お見知り置きを、と深々頭を下げる男。
 事態を把握できない二人は、顔を見合わせてどうすると目だけで会話して、俯いていた美鈴が顔を上げて微苦笑を浮かべて二人の袖をつまんだ。
「大丈夫。遊太さん、たまに迎えに来てもらってる人だから」
 その言葉を聞いて納得した二人は、自分達も自己紹介した。
「どうも、綿貫ゆかです。いつも癒してもらってます」
 まだ少しだけ疑うような目をしたゆかは、顔だけで会釈した。元々ゆかは男性に対していつも強く当たることがある。学校の教師にだってそうである。
「はじめまして。天沢薫です。美鈴さんのクラスの学級委員を勤めさせていただいています」
 愛想のいい薫はにっこりと少女らしく、少しおとなしめに微笑んだ。こちらは対極的で誰に対しても人当たりがいい。彼女に好感を持てない人間はそうはいない。
「いつもお嬢からお話聞いてます」
 遊太は、ははと笑い立ち上がった。そして車の後部席のドアを開ける。
「たしか今日はお泊りのご予定でしたね。どうぞ、お乗りください」
 そう言われてためらったゆかを差し置いて、最初に薫が乗りこみ、次に美鈴。そして二人が乗り込んだのを見て。ゆかが慌てて最後に乗むと、遊太がドアを閉めて運転席に乗り込んだ。
 滑り出すように走りだした車は、驚くほど静かだった。近づいてきたときはある程度聞こえた走行騒音も、車内からはまったく聞こえない。無言の車内で、突然雄太があっと声を上げた。
「お二人とも、一度ご帰宅なさいますよね?」
 美鈴とゆかは疑問符を浮かべかけたが、薫がええといってすぐにうなずいた。
「ご自宅までお送りいたします。お二方のご自宅は?」
 速度を緩めて、二人の答えを待つ。最初に口を開いたのは、やはり薫だった。
「私達、家が隣同士なんです。場所は、18番地です」
「ああ、そうなんですか。じゃあすぐ近くですね」
 運転手として地理を完全に把握している遊太は、迷いもせず時間もかけずに二人の家の前まで車を向かわせた。
「お待たせしました」
 薫がうなずくのを見て、遊太は即座に車を降りて後部席のドアを開けた。その屈強な体つきとは裏腹に、しなやかで素早い動きだった。
「すみません。これ置いていっていいですか?」
 薫が申し訳なさそうに紙束の入った手提げを指差す。
「どうぞ御気になさらずに、ご自宅の車と思ってください」
 ありがとうと頷いて、三人は後部席から出た。美鈴は二人を見送るよう外に立つ。
「お嬢。だいぶ学校にも慣れたみたいですね」
 よく磨かれて黒光りする車体に背中を預けた美鈴に、満面の笑みを浮かべた遊太が声をかけた。一拍置いて、美鈴は小さくうなずいた。
「私は安心しましたよ。本当によかった」
 しんみりとひとりで頷く遊太。美鈴はどこか遠くを見るような目で、彼とは視線を交わさなかった。
 それからしばらくして、二人はすぐに着替えを済ませて出てきた。元々準備していたらしい。
「わっ、わっ!」
 二人の私服は、同性の美鈴から見てもかなり似合っていて、素敵だ。思わず目を輝かせていた。
 薫はそもそもの外見がそうだが、育ちのよさそうな清楚な装いで、今日はロングのワンピースにケープを羽織っている。そのまま有力者達の立食会に飛び込んでも、まったく違和感を感じさせないだろう。
 ゆかは逆にボーイッシュな格好だ。少し色の抜けたジーンズに黒いハイネックのセーターと丈の短いジャケットを羽織っている。実年齢よりも二、三歳は上に見える。
「お待たせ」
 目を輝かせてきょろきょろと二人を見る美鈴を見て、ゆかは顔をたるませた。
「お願いします」
「はい」
 遠慮がちに薫は言って、遊太に二日分の荷物が詰まったカバンを手渡した。遅れてゆかも渡す。そして馴れた動きでトランクに入れると、ドアを開けて三人を後部席にすすめた。
 車は今度こそ美鈴の自宅に向う。
 最初に乗り込んだときと同じように、後部席の中央に美鈴が座っている。その状況で美鈴は落ち着きがない。両サイドに座るゆかと薫を交互に見ているのだ。それを少しだらしない顔でゆかが見つめていた。
「さっきから、どうかしたの?」
 学級委員の資料を片手に指折りしていた薫が尋ねた。先ほどからずっと真剣な顔で資料を睨んでいたのだが、どうやら見ていたらしい。びくと肩を一度震わせてから、美鈴は照れた微笑を浮かべて見せた。
「ふたりともすごい美人さんだから、見てたくて」
 美鈴の中でこの二人はいつも自慢する美人である。それを誰が否定するわけではないのだが、もちろん当の二人からすれば、妖精のように神秘的な美鈴に言われても、素直に喜べないのが事実である。
 案の定暗い影を落として微笑を浮かべた薫と、さきほど学校で暴走したときと同じように両手を戦慄かせるゆか。突然雰囲気の変わった二人に、はっと本能的に危険を察した美鈴は二人から距離をとろうとしたが、ここは狭い車の中だ。
 さっと顔を青ざめさせた美鈴は、運転席の遊太に助けを求めようとしたが、運転席と後部席を隔てる黒い板が、非情にもせり上がっていくのが見えた。
 悲鳴を上げた。運転席で遊太はのほほんとした笑みを浮かべた。
「お嬢も、すっかりご学友の方々と打ち解けてるみたいで、私はうれしいです」
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