AC8.3

文字数 2,894文字

 中は一言でいえば倉庫だった。天井まである五段の鉄製の棚が大人二人分ほどの間隔をあけて立ち並び、その一段一段にトンカチやスパナ、ドライバーなどの工具類や、電子基板やプラスチックケース、鉄屑、木屑などのガラクタが詰まった段ボールが隙間を埋めるように置かれていた。これだけの物があればよさげなものの一つは見つかるだろうし、もしかしたら鍵かエレベーターキーのどちらかあるいはその両方があるかもしれない。若干の期待を胸に右側から順に探していった。
 そして十分ほどがたち一列目の半分まで探し終えたところで
「動くな」
 と突然背後から命令された。完全に油断していたから、口から心臓が飛び出るかと思うほどびっくりして、言われるまでもなく動けなかった。気配がまったくしなかったけど、一体いつこの部屋に入ったんだろうか。自分の注意力のなさをうらめしく思っていると、
「両手を頭の後ろにまわして、静かにこちらを向け。いいな、静かに、だ」と背後の人物は低く威圧するように言った。が、その声はかすかに震えていた。
 身を守るための道具を探している後ろをあっけなく取られたのは目も当てられないほど情けない。でも、そのまま襲わなかったのをみるに交渉するつもりがあるらしい。そんなことを考えながら下された命令に従って、頭のうしろで手を組み、静かに振り返ると目に飛び込んできたものに頭の中を吹き飛ばされた。空中に穿たれた黒い穴が震えながらこちらを見つめていた。
「――――おい、聞いてるのか!?」
 その荒げた声でわれにかえりあわてて銃口から視線を移すと、血の気が失せた青白い顔にこれでもかと見開き動揺する二つの瞳とぶつかった。その瞬間、心臓がまた大きく跳ね、そして息苦しくなった。
「それで、どうなんだ? 持っているのか、いないのか」
 マズイことにまさかこんなものと顔をつきあわせるとは夢にも思っていなかったから頭が真っ白になって聞き逃したけれど、ありがたいことにいまので何を聞いているのかわかった。おそらく鍵とエレベーターキーのことを聞いているはず、となると当然ながら『いない』と答えたい。でも、目の前に小刻みに震えている鉄の塊と何かが触れでもしたら爆発してしまいそうなほどの危うさが、自分に無言の圧力をかけてくる。希望と圧力の板挟みに決断を迷っているとふいに一つの考えがひらめいた。一瞬その可能性を真剣に考えたが、こちらをじっと見張る黒目に戦慄しすぐに心の中で首を振った。
「なにを黙りこくっているんだ? 持ってるか持ってないか、まさか答えられないわけはないだろう? はやく答えるんだ!」思いついた計画を破棄したところで、これ以上は抑えきれないとでも言うように歯を食いしばりながらがなり立ててきた。
 もう迷っているひまはない。自分はわずかな沈黙を挟んだあと「…………鍵ならあります」と言った。
 すると、危なげに揺れる眼を一瞬だけ輝かせたかと思うとすぐ眉間にしわをよせ「なら、それを譲ってくれないか?」と言った。
 持っているなんて言えばそう返してくるのが当たり前で、自分はさらなる決断を迫られることになった。譲るのか譲らないのか、ここまでの一時間を考慮したらいま一本失うのはかなりの痛手だ。しかし、それはあくまで脱出を目指しているならの話で、脱出も――かりにできたとして――その先のことも半分諦めているのなららいっそのこと全部上げてしまえばいい。この人のほうが自分なんかよりもよっぽど鍵を持つにふさわしいし、渡せば自分も……。そこまでいって自分がとんでもないことを考えているのに気がつき、あわててその考えを投げ捨てた。しかし、放棄しようとも考えてしまった事実を消すことはできず、胸になにかが突き刺さったような痛みが残った。人は非常事態に陥った時その本性があらわれる、その言葉通り自分の浅ましさに直面し閉口していると、
「…………頼む」と小さく震えた声で頭をかきむしりながら相手は言った。「君も……誰か大切な人を人質にされているのはわかっている…………それでも、それでも頼む。あの人を死なせるわけには絶対にいかないんだ。私にとってあの人だけが唯一の希望なんだ。あの人を救うためならどんなことだってしてみせる。たとえそれで罪を背負うことにもなっても…………だから、どうか君の持っている鍵を譲ってほしい。おねがいだ」
 中盤にさしかかったころにはもう狂気に飲まれかけているその両目から涙があふれ頬をぬらしていた。銃口を向けられた衝撃でまったく意識になかったけど、服装とあいまってその姿は悲惨そのものだった。スーツがはだけ、ワイシャツのボタンはいくつかはずれ、ネクタイも見当たらない。それに右ひざの部分はひどく擦れ剥げかかっていて、両裾はなにかわからない黒いシミで汚れ、その黒いシミは袖にも付着していた。くわえて銃を握る手には血のにじむできたばかりのような切り傷や内出血しているのか紫に変色しているところもあった。
 自分とは大違いだった。これまでになにがあったのか推し量ることもできないけど、その必死の思いはいやというほど伝わってくる。そして伝わってきた悲痛な思いに自分の最奥で宙ぶらりんになっている心は大きく揺らされ、ついに自分は言った。
「……わかりました。鍵を渡します」すると、
「本当か!?」と声をあげ、一歩踏み出してきた。
「でも条件があります」そのため銃口もほぼ額に当たるぐらいまで詰め寄ってきたので、おもわずのけぞりながら付け加えた。
「なんだ? なんでも言ってくれ」のけぞった自分を見てハッとしたあと、表情や声の調子を少し落ち着けて聞いてきた。
「では、まずその銃を地面に置いてもらえますか」自分は最初の要求を出した。やはりその強力な武器を手放すのは惜しいらしく少し考えて「わかった」と返事をし銃をゆっくりと足元に置いた。
「次に、おたがいにこのまま後ろの棚までさがります。いいですか?」
「ああ」
 その返事のあと、少し間を開けて、しめしあわせたかのように鏡映しに一歩後退した。そのまま二歩、三歩と距離を離していき、やがて二人とも背後の棚に背中をあわせた。
「では、鍵を渡します」とすこし声をはりあげると、相手はこくりとうなずいた。それとほぼ同時に彼女が案内をはじめた。
「それでは鍵の『譲渡』をはじめますが、本当にいいですか?」
 彼女の確認に、頭の中でなにかが囁くのを意識しつつ、わずかに時間を置いてから小さく「はい」と返事をした。
「わかりました。個数は一つで?」
「はい」
 自分の返事のあとまもなく、向こうから上ずった「ああ!」という声が聞こえた。どうやら鍵が渡ったらしい。見てみるとたしかに一つなくなっていた。
「『譲渡』が完了しました。では失礼します」
 そう言って彼女はいなくなり、相手が次の指示をくれるよう視線を送っているので、
「これで最後です。そちらの扉からでていってください」と言うと、
「わかった」と言って一歩踏み出したかと思いきや、立ち止まって自分のほうを振り向き「ありがとう。本当にありがとう」と深く頭をさげて部屋から出ていった。
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