AC8.6

文字数 1,903文字

「まさかと思ったが、やっぱりお前だったのか」その呼びかけに父さんはそう言って近づいてきて「大丈夫か? 怪我したりしてないか」と眉を八の字にして心配そうに優しく聞いてきた。
「うん。大丈夫」そう答えると、
「そうか、それならいいんだが……」安心したようなでもまだ不安があるような、そんな顔をしながらつぶやいたあと、ちらっと自分を見て言いにくそうに「それじゃ、お前がここにいるということは姉さんが」
 自分はうなずいた。
 父さんは「そうか……」と消え入るように呟いた。
「父さんのほうも、母さんが?」
「ああ」
 そこで二人して口を閉ざし、耐えがたい沈黙に包まれた。
 たぶん父さんは、家族全員がそろってしまったことを考えているのだろうけれど、自分は――同じことを考えていないわけではない――それよりも目の前の父さんのことを考えていた。父さんもあの人と同じようにスーツに身を包んでいるが、父さんのほうがいくらか大丈夫そうだ。上着のボタンはきっちりつけているし、ネクタイもしているし、汚れも見あたらない、ただ目に見えて疲れてはいる。ここまで疲労困憊ではないもののこのスーツ姿はいつも朝や夜に目にするし、さっきの心配した時に優しくかけてくる声も、間違いなく父さんだ。
 でも……と否定の言葉が自然と出てきてしまう。
 はたしてこの人はまったくの偽物――このテストのためだけに無から作られた記憶であり人物なのか、あるいは半分は本物で半分は偽物――元の自分たちは実在するけど、ここの自分たちは作り物なのか、それともすべて本物なのか。もし作り物であるなら、本物であってもおなじことが言えるけど、どうしてこんなことをするのか。
 こんなことを考えているとそのうちになんだか父さんのことを見ていられなくなり、あちこちと泳がせていたら父さんが聞いてきた。
「そう言えば、お前は鍵を持っているのか?」
「あ……う、うん、鍵を一つだけなら」あっちこっちと視線を移しながら答えて「父さんは?」と聞き返した。
「私も鍵を一つ、それとエレベーターキーもある」
 その答えを聞いた瞬間、心臓が縮み上がり、血の気が失せたのが自分でもわかった。どうでもいいと投げ捨てたはずなのに、罪悪感に握り潰されそうだ。結局、自分は間違っていたのか。
「――――い、大丈夫か? しっかりしろ」
 父さんの呼ぶ声がして我に返った。すると、目の前にまた困ったような顔して自分を覗き込む父さんの顔が見えた。やってしまった、胸がズキンと痛んだ。
「……な、なに?」
「それを聞きたいのは私のほうだ。急に顔を真っ青にして黙り込んで、どうしたんだ? 本当はどこか調子が悪いんじゃないのか?」
「いや、ただちょっと考えごとをしていただけだから大丈夫だよ。ごめん」
「……そうか、でも何かあったらすぐに言ってくれ。迷惑だとか余計な心配だとか考えなくていいからな」
 その表情は自分の嘘を見抜いていた。それに対して自分はまたよけいな気遣いをさせてしまったと後悔しながらうなずいた。
「それじゃ確認しておきたいんだが、姉さんの居場所は?」
 首を振った。
「ならエレベーターキーを渡そう。ついでに鍵も渡しておくよ」
「え!? それはダメだよ。父さんが手に入れたんだから」
 とんでもない提案に間髪いれずに反対した。
「しかし、そうしないと姉さんの居場所がわからないだろう?」
「なら、エレベーターキーだけ受け取って、そのあと返せばいいでしょ。それに自分にはそれを受け取る資格がないよ」
「…………やっぱり何かあるんだろ」ぽろっともらしてしまった本音に、父さんは少し真剣な声色になって言った。
 自分はつい黙ってしまった。これではなおさらあると言っているようなものだけど、それでも口を固く結んだ。
「いいか」そんな自分に対して諭すような口調で父さんが言った。「お前の話したくないと思う気持ちはわかる、私にもそういう時があるからな。でも……それでもせめて私には話してくれないか。誰かに話せば解決できることもあるし、気持ちもすこしは楽になるだろう。なにより、これは私のわがままだが、寂しんだ。おまえが悩んでいる苦しんでいるならなんとかして力になってやりたいんだ。だから……私のためにも話してくれないか」
 父さんの話を聞いているうちに目頭があつくなり、終わるころにはもう視界がぐちゃぐちゃになっていた。こんな場所でこんな嬉しいことに出会えるなんて。自分は一度うなずいてから、ぽろぽろとなみだを流しながら話しはじめた。途中なみだに震えて途切れ途切れになってしまいうまく話せないこともあったけれど、それでも父さんは真剣に最後まで聞いてくれた。…………
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