AC5.6

文字数 1,720文字

 そうして体力、気力、時間を容赦なく奪われながら、さらにこれだけでは飽き足らず水滴となってたれる汗に視界さえも奪われかけながら、ようやく半分まできた。もはやここまでくると左手首の痛みは感じなくなっているが、それとひきかえにもう一人の自分の鼻で笑って囁く声が大きくなっている。しかしその一方で、こんな状態でもここまで登ってこられた事実が自分を奮い立たせてもいて、その高揚の手を借りて人を嘲る冷めきった声をなんとかかきけす。そうして自分の内面とも戦いつつ次の突起を掴むため右手を離した瞬間、いままでにない激痛が突然手首に突き刺さった。
「ッ!」
 おもわず声にならないうめき声を出し手を離してしまった。「マズい!」そう思った時にはもう景色は上昇を始めていた。視界も思考も体も全てがバラバラに自分勝手に動く。――――
「…………」
 心臓が破裂しそうだ。火事場の馬鹿力なのか、奇跡なのか、自分の右手がなんとか掴んでいた突起を掴みなおしてくれたおかげで、なかばぶらさがったような状態でとどまることができた。もし右手がつかみそこねていたらどうなっていたか。落ちるとわかった瞬間、冗談抜きで終わったと思った。崩れている体勢をちょっとずつ慎重になおしていき、なんとか安定した体勢に戻れたところで、無意識にちらっと下を見てしまった。すると視界の端で白い足場が見つめ返してきた。本当の本当に落ちなくてよかったと心の底から思う。だけど、助かったのはよかったけど……手首がもう限界だ。動かすことさえままならない。そのあまりの痛さにめじりに涙がたまり、頭の中で警鐘が鳴り響いている。どうしようもなく自分は頂上を見上げた。足場は下で見た時よりもずっと近くにある、それなのに遥か遠くまるで手の届かない夢の果てのように思える。左手首の痛みに肉体だけでなく精神もえぐられ、自分を奮い立たせていた自信がボロボロと崩れ落ちていく。そしてその影から追い払ったはずのもうひとりの自分が現れ、冷めた声でささやいてくる。
 いったいなんのためにやっているんだ――がんばったって何の意味があるんだ――どうして自分がこんな目にあわないといけないんだ――。
 まるで氷水のように冷え切った言葉をつぎつぎと浴びせかけられ。それを吸い込んだ体がだんだんと重たくなっていき、つなぎとめてくれた右手からも力が抜け落ちていく。
「……くそっ」
 だらしなく俯いて蚊のなくような声で吐き捨てた。そして体の中にまだ残ってくれている微かな力を振り絞った。あれこれ愚痴ったところで何かが変わるわけではない。それにこの中途半端な場所でいまさら諦めてどうするのか、やめるにしろ続けるにしろ降りなければいけないし登らなければいけないわけで、それなら危険であっても登ったほうが百倍はマシだ。目をつぶって大きく息を吸ってこの部屋に音が響きそうなぐらい思いっきり吐いた。そしてパッと目を開け、右手を離した。激痛が左手を突き刺す、それでも歯を食いしばって懸命に耐え、ゆっくりとだけど確実に一つ一つ登っていく。
 なによりこの苦しい状況を作り出したのは紛れもなく自分なんだ。あの時はじめは小さな可能性に賭けてみようという気持ちでやろうとしていたけど、彼女に引きとめられ忠告を受けてからは、それに従うのが気に喰わなくて見返してやろうという気持ちのほうが強かった。だから、そんなつまらない意地を張っておいてなんでこんなつらいめになんてぶつくさ文句を言うのは筋違いだし、それで彼女が自分の考えや行動を正確に予測しているなんてまるで自分のせいじゃないと言わんばかりの考えを起こすのはあまりに幼稚だ。とにかく自分は進むしかない。これで何度目になるのか、自分に目の前のことに集中しろと叱り、頂上を目指した。
 そうして出せるものを全て絞り出して残り時間があと七分をきったころ、痛みと疲れから古ぼけた機械のように激しく息を切らし滝のような汗をながして、やっと最後の足場に足が届くところまできた。しかし、その安心に命を取られないよう最後の最後まで気を引き締めて、確実に確実に着地できるのをたしかめてから手を離した。そしてそのまま落ちるのに身を任せへたり込んだ。
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