AC5.4

文字数 1,894文字

 ズキっと痛みが襲いかかってきた。幸先の悪さに心の中で悪態をつき過去の自分を呪いながら、まずは安全に左手から先に出し、しっくりくるところを探してから大きく息を吐き吸って、右手を離した。
「っ!」おもわず顔を歪める。しかし、右手はしっかりと次の棒を掴んだ。
 とりあえず最初を耐えられたのはよかった。でも状況は思っていた以上に悪く、このあと一回一回痛みがおさまるまで待つのと、ひどくなるのを覚悟で進み続けるのとどちらがいいのか。待っていたら体力と時間を使ってしまうし、かといって進み続けたら最後まで持たないかもしれない……とそこまで考えて、こうして考えているのが一番もったいないと気づき、ひとまず先に進みマズいと思ったら休むことした。そうして痛みがひどくなったら休憩をいれつつ進んでいき、そのあいだ下は見ないように意識して、やがて半分を越えのこり三分の一のところまで来た。額はじわりと汗ばみ、左手首は常にじんわりとした痛みにうめいている。でも、ここまでくれば行けたも同然。だけど、油断は命取りだ。残りも慎重にかつ確実に棒を掴み進んでいく。
 そして、ようやく、やっと最後の棒に到達した。ぶら下がった足の下にちゃんと足場があることを確かめてから、ちょっとだけ勢いをつけて手を離した。無事かたい地面に着地した。これで二つ目。
「ふぅ……」と膝に両手をついて息を吐き出し、額の汗を拭いた。
 正直かなりキツかった。いつ突然の激痛に襲われるかわからない緊張感が余計に体力を奪っていって、そうでなくてもずっと続く鈍痛にガリガリ心を削られて、いつ落ちてもおかしくなかった。もしこれが万全の状態だったら――ついそう考えてしまう。こんな調子であの壁を登れるのか、恨めしそうに斜交いにある壁を見て、手首を見て歯噛みをした。しかし、すぐに頭を振った。そんな先のことを見ても壁の前で落ちでもしたら元も子もないし、あれは自分がやると決めてやったのだからぐちぐち言ってもしかたがない。視線を次の種目へ移し、自分に発破をかけた。
 次にやるのは幅跳び。今いる足場が左上なら左下の足場へ、三~四メートルあるかないかぐらいの距離を跳ばないといけない。さっきの雲梯とは違い手首を痛める心配がないとはいえ、こっちは跳んだら最後、そのまま落ちるか次に行けるかのどちらかだ。そういう意味では途中で色々できる雲梯よりも緊張感があるかもしれない。……いや、よくよく考えれば緊張感はこちらのほうが圧倒的に上だ。雲梯までなら落ちても挽回できる可能性はあるけど、この幅跳びから先で落ちたら時間的にも肉体的にもやりなおすのは到底無理だ。本当に一発で合格しないといけない。そのためにも学校とは地面も助走距離も精神状態もなにもかもが違うから入念な準備をしないと。そうして立った状態からなのか、前傾姿勢をとるのか、踏み切りはどっちなのか、と色んなことを試して――途中勢いあまって落ちそうになりながら――やっと納得のいく形が見つかった。少しだけ腰をおとし、左足を前に右足の側面を壁につける、これが一番走り出しやすく踏み切りもうまくいった形だった。
 これで準備が整い、あとは跳ぶだけ。壁際まで行き、ぴったりと背中をくっつけたあと、その姿勢をとった。そして顔を上げ目標地点を視界におさめた。すると自分の幻影が走りだした、何度も確認した通りの走り、踏み切りで。しかし、理想通りに飛び出した幻はあえなく足場の影へと消えていった。
 自分は寒気に襲われぶるっと体を震わせた。こんなんじゃダメだ、そう声にも満たない声で呟いて急いであざやかに窮地を跳び越える映像を作り出しむりやり幻を上書きした。それでも緊張は取れない、むしろさらに息苦しくなり足が竦む。自分は目を閉じた。なんてことないただの走り幅跳びだ、なにも落ちたからといって世界が終わるわけでもない、いつもの通り走って跳べばいい、大丈夫、大丈夫。弱気になっている自分にそう言い聞かせながら、静かに息を吸って吐きだしまた吸って吐き出す。そして目を開け、走り出した。
 景色が一瞬にして後ろへ流れ、あっという間にその時がくる。無心で思いっ切り地面を蹴った。その瞬間、落ちる気配が自分を掠めていった。
 だけど、いまさら止まれない。そのまま地面を離れ、ちゅうに浮いたと思ったらすぐさま地面が近づいてくる。やがて強烈な衝撃が足裏をたたき、そして転げる勢いでよつんばいに倒れた。心臓が心配になるほど激しい鼓動が頭の中で響いている。すこしのあいだ四つん這いのままでいたあと、体を回転させお尻を地面にくっつけた。反転した景色が視界に映った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み