AC9.3

文字数 2,292文字

「そうだね……もうすこしくわしくいうと、産まれたその瞬間から死ぬその瞬間までのその人のありとあらゆる情報を記録しているんだ。たとえば身長や体重、肌の色、瞳の色、髪の色に髪型、鼻に口に耳にほくろの数や位置などその人の容姿に関することから、体温や脈拍、けがや病気といった体調面などの肉体的な情報はもちろんのこと、いつどこでなにをしたのか――見たもの聞いたもの触ったもの嗅いだもの食べたもの、思ったこと考えたこと感じたこと言ったことなど、思考や言動も……ようはその人の人生を一秒たりとも逃さず記録しているんだ」
 私は開いた口が塞がらなかった。
「だから」そんな私を気にもとめず総一は続けた。「今この瞬間もACは君のことを誰よりも近くで見続けている。そしてできたのがさっきの映像なんだ」
 そこで総一は私の眼をみた。どうやらなにかしらの反応を期待しているようだが、その期待には応えられなかった。それもそのはず、いきなりそんな現実離れした話を聞かされてどう反応すればいいというのか。ひとの人生を余すところなく記録しているなんてばかげている。対象が私ひとりなら百歩ゆずってわかるとしても義務化しているいまその量ははかりしれないし、集める情報にしても目に見えるものならまだしも思考までも含まれているなんて……そんなことありえない、あってはならない。くわえてもしそれが本当のことだとして、その収集した情報であの映像ができたというのがいまいちピンとこない。
 私が考え事をしているあいだ、総一は私のことをずっと見ていた。やはり何か私からの反応を期待しているみたいなので、しかたなしに口をひらいた。
「全部というのがどういうことなのかはわかりました。ですが、そんなこと到底信じられませんし、それでどうしてあの映像を作ることになるのかさっぱりです」
「それじゃ君はどっちからがいい? 証拠と目的ならどっちから知りたい?」
 私の反応が予想通りだったからか総一は余裕のある態度で二択をせまってきた。私の身に起こったことではないし、アタリハズレがあるわけでもないのに――私の場合はある意味でどちらともハズレだが――おもわず身構えてしまった。初めての二択のはずなのに何度も味わったような嫌な感じをおぼえつつ、どちらにするか考え始めた。
 証拠と目的。どちらとも気になるし、また知りたくもない。触らぬ神になんとやらというように知っていいことなんてひとつとしてあるはずもなく、とくに証拠のほうは情報収集が現実に行われていることを認めなければならなくなる。可能性のうちにとどめられるならそうしたい、そうすれば恐ろしいまでに平等な時間の力でいつかは無数にある過去の残骸のなかに埋めることもできるだろうから。そうして叶いもしない夢を見ながらしばらく悩んで、私はまずは証拠を見ることにした。理由を問われたら返答に窮するが、強いて言えば証拠を見ないことにはその先の話を聞いてもと思ったからだ。
「……では、証拠を見せてもらえますか」
「わかった。じゃ、ちょっと借りてくるから待っててもらえるかな?」
「わかりました」
 その返事を聞いて総一は口を閉ざした。私は借りてくるという言葉に引っかかりをおぼえながらも、詮索はせずおとなしく待つことにした。
 ついさっきまでは何とも思っていなかったのに、あらためてACについて考えたこともあってか、こうしてつかっているところを客観的に眺めていると不思議なというか結構滑稽な光景に思えてくる。はたから見れば何もすることがない暇人のようにただぼうっと遠くを眺めているだけの姿も、実のところ本を読んだり曲を聴いたりネットを楽しんでいたりするのかもしれないし、あるいは誰かと連絡をとりあっているのかもしれない。何もしていないように見えてほんとうは色んなものが動いている、と思わせて本当にぼんやりとしていることもありえるから、そのちぐはぐさがまた事態を奇妙にしているんだろう。しかし、今はその滑稽な姿が逃げ出したいくらいに恐ろしくもある。総一が醸し出している静寂のうらでこれから巻き起こるであろうことを考えると、さながら今の私は孤立無援の絶海で今にも沈みゆきそうなぼろ舟のうえ嵐の到来をただ待ち受けるしかない漂流者のようだ。
 そういうふうに物思いに沈んでいると、とつぜんどこからかファイルが一つ送られてきた。鍵はかかっているが名前はなく、誰が送ってきたのかもわからないが、十中八九これが総一のいう証拠で間違いないだろう。一応確認のために視線を送ると総一はほほえんだ。これで確認がとれたわけだが、正直にいえばまったくもって信じられない。時間にして三十秒そこらで何の変哲もないファイルがひとつ送られてきただけ、このなかに人生のすべてがつまっているというのだ、信じられるわけがない。そう思っていながらも私はファイルを開けることができないでいる。頭とは裏腹に心では認めてしまっている、このファイルをあけてしまったらもう引き返すことのできない領域へ足を踏み入れてしまうことを。
 鼓動が鼓膜のおくで鳴り響き、手のひらが汗ばむ、なにかコップ一杯の水でもいいから飲みたい。時間が急速に流れていく気がする。このまま微動だにしなければ事態も好転とまでは言わないが動かずにすむならぜひともそうしたい、がもう封を切らなければならない。結局、私がいくら耐えられても向こうがしびれを切らしたら終わりなわけだから、それなら私から動いたほうが心構えもできていくぶんかマシだろう。一度だけ小さく息を吐いて、ちらりと総一に目をやって、私はファイルを開いた。
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