AC5.3

文字数 2,095文字

 彼女の合図とともに地面を思いっきり蹴った。そして腕をめいっぱいのばし棒を掴み、両足で挟み込んだ。この時点ではまだ右手だけで支えられるから痛むことはない。でも、これから先を登っていくためには左手も使わなければいけない場面がどうしても出てくる。棒を見あげて、ぽっかりと空いた穴を見あげて、頭を捻ったところでいい方法は出てこない。やるしかないと覚悟を決め、視線を少しだけ落とし次に掴む場所を定める。そして右手に力をいれ棒を引き寄せるようにゆっくりと登り、目当てのところを左手で掴み両足も移して、最後に右手から力を抜いた。さいわいなことにこの状態では痛みはさほどない。本番はつぎだ。確実にくるであろう痛みにそなえるため深呼吸をする。
「よし」そう呟いて、左手に力を入れた。
「っ!」鋭い痛みがはしる。でも、堪えられないほどじゃない。
 そうして顔をしかめながらも一手一手登っていき、やがて頭上にあった足場の穴から肩が出るぐらいのところまで到達した。ここまで来ればあとはわざわざ棒を登らなくても足場の力を借りればそれで済む。落ちないようにと少し痛む左手で棒をしっかりと握りしめてから足場に右手をかけ、両足と一緒に力を込め一気に体を押し上げ、その勢いを利用して足場に腰かけた。
「ふぅ……」
 一段落してついため息がこぼれる。ただの登り棒でもなんだか異様に疲れた感じがするも時間が惜しいので、すぐに宙ぶらりんになっている足も足場に乗せ、雲梯へ向かった。しかし、雲梯には移らず、まずは足場の端から下を覗いてみた。
「結構あるな」ちょっとだけ怖気づきながらそう呟いた。
 この足場からクッションまではだいたい三、四メートルぐらい。下から見あげた時は高いなぐらいとしか感じなかったのが、こうして上から覗いているとより高く感じる。たぶん手すりのない二階のベランダから見たらこんな感じなんだろう。とはいえ、まだこの高さなら落ちても下がクッションだから怪我することはそうそうないと思う。
 とりあえず寄り道はこの辺にして視線を雲梯へと移した。ただ雲梯といっても黄色い棒を等間隔で壁に突き刺したものが反対側――入って来た扉を下にしてこの部屋を上から見た時の左上隅――に伸びているだけだ。足場の端に立ち、棒を見上げ、背伸びをしてさらに腕を限界まで伸ばした。が、ギリギリ届かない。
「おっと」
 絶妙な位置にある棒に意地になっていたらあやうく落ちそうになり、あわてて体をそらしてなんとか持ちこたえた。始めるには跳ぶしかないみたいだ。
「……だいじょうぶかな」左手をさすりながら呟いた。
 登り棒とは違い今度は常に体重が左手にもかかる。最悪……というより十中八九痛みはひどくなってしまうはず。さすっていた手首を見つめ、それから登り棒を振り返り、ぐるりとまたこの部屋全体を見渡して、自分はあることを考え始めた。
 自分が最初の部屋で両親のことを思い出したとき、彼女は自分の考えを――警察が助けにきてくれるかもしれないと考えていたのを言い当てた。あの時はその迷いのなさに、彼女は何らかの方法を使って自分の心を読んでいるのでは、と荒唐無稽な考えを起こした。それをそんなことはありえない、馬鹿げていると頭は否定していたけれど、心はその考えを捨てきれずにいた。そんな中で自分は教室で怪我を負い、そしてこの部屋にやってきてこの内装を見たとき、別の考えがひらめいた。それは彼女は心を読んでいたのではなく、自分が何を考え何をするのか予測をしておき、それに基づいてこのテストを作りまた彼女は動いているというもの。そうであれば言い当てたことも彼女の目的もその予測がどれほど正確なのか確かめることと説明できる。まさしくテストというわけだ。
 ――わかっている。この考えが心を読んでいるのとおなじくらい、いやそれ以上に馬鹿げたものだってことは。でないと、自分が何をしても……。
「あの……どうしました? もし手首が心配なら棄権することもできますよ」
 彼女の声で出口のない迷路から現実へと戻され、ふといつだったか同じような感じで母さんが無理しなくていいと慰めてくれたときのことを思い出した。そのおかげか少しだけ気持ちが軽くなったけど、なんとなく裏切ってしまったような気がした。しかし、今はそれどころではない。懐かしさともやもやを押しやって彼女に返事をした。
「いえ……ちょっと考え事をしてただけなので大丈夫です」
「……そうですか」すると彼女は少し納得のいってないふうに言ったあと「もし何かあったら、いつでも私のことを呼んでくださいね」といつもの調子に戻って言った。
 自分はそれに「はい」と答えて、彼女と別れたあと時間を確認した。まだ五分も経っていなかった。とりあえずはよかったが、目の前にやるべきことがあるのに別のことを考えだしてしまうのは自分の悪い癖だ。これではダメだと自分を注意し頭を振って気持ちをきりかえ先に進もうとしたところ、不意に準備運動をしていないことを思い出し、すこしだけ体操をしてから雲梯を見上げた。そして「よし」と小さくつぶやき、軽く跳んで最初の棒をつかんだ。
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