AC9.14

文字数 1,330文字

 そうして未知の世界へただひとり降り立った私の頭の中は、さっき知らぬ間にできていたことを知った考えに占領されていた。
 あれが私だとでも言うのだろうか? ありもしない過去を作れるなら、あるかもしれない未来も作れるということなのか?
 そんなふざけた話が……あるのかもしれない。否定したかったけれど、ここにきて本当に何も知らずに生きてきたことを知った現在、私はその可能性を否定できなかった。閉じ切ったエレベーターを見つめて、それから振り返ると一本道の先に扉がある。他に道はない。……しかし、本当にそうなのだろうか? まだ別に行ける道があるんじゃないのか? 抜け出すことのできない大きなうねりにせめて何かに縋りつきたい一心に、私は周りを見渡した。当然ながらいくら穴が空くほど目を凝らしても映っているまんまだ。ガラスのような見えざる手が光を屈折させていることを知り、そのせいでその覆いだけでなく私自身の手でも捻じ曲げてしまっている。それがどんなに単純な真実でも素直に受け入れられない。簡単に言えば、ひねくれてしまった。それがわかっていながら抜け出せない。結局、私の取れる選択はこの道だけだ。
 生まれたばかりの小鹿のような覚束ない足取りで進んでいく。恐怖、不安、寂しさ、焦り、いらだち――言い表せない感情の濁流のなか、私は二人の顔を脳裏に描き出したが、それすらも一瞬のうちに飲み込まれてしまう。
 今の私には縋れる藁すらな……いや、それが彼女なのか。縋りつける唯一の藁がこの扉の先にいるのか。
 たどりついた扉には私が初めて開けた扉と同じように表札がついていた。そしてそれには『Alice』と書かれていた。
 私の心臓はやはり落ち着きを取り戻し始めた。
 あとはこの扉を開けるだけ。しかし、穏やかな心音とは対照的に手は震えてばかりで伸ばすことができない。自分でも不思議でしょうがない。私の体にいったい何が起こっているのか。心と体の矛盾に彼女という存在を否が応でも感じる。私は無意識に後ろを振り返っていた。振り返った先には依然としてエレベーターがそこにあった。このまま体も回転させて走っていけば何事もなかったかのように家に帰れるかもしれない。そして夢だとか妄想だとか適当な言葉でくるんでどこか奥の方に押し込んでしまえばいい。そうすればいつだか埃にまみれてくれるかもしれない。……だけど、その間も彼女は私のそばにいる。その時、彼女はどんなふうに振る舞うのだろうか。おそらく前と何ひとつ変わらない態度で――――私が望むように何事もなかったかのように振る舞ってくれるはず。そしてその本心もいつしか塵に埋もれてしまうのだろう。はたしてそれでいいのか。こうして扉の前であれこれと悩んでいると、ここに来た時の彼女とのやりとりが思い出される。今となっては行くのも帰るのも地獄だ。そうなるとあとは私が何をしたいのかだ。極寒に打ち震えるのがいいのか獄炎に焼き尽くされるのがいいのか。
 そうして自問自答を重ねに重ね、ついに気持ちを固めた私は顔を元に戻し震える手をノブに被せた。それは寂しさに濡れたように冷たく、それに呼応するように体は熱くなった。私は深呼吸をした。そしてゆっくりと最後の扉を回し開けた。
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