AC9.12

文字数 1,811文字

「は?」
「いや、だから握手をしたっていうが、私にはそんなことした記憶はない」
 まったく予期していなかった告白に私の思考回路は停止した。しかし、すぐに復活し語気を強めて言った。
「嘘です、だってあなたから手を差し出してきたじゃないですか。間違いないです」
「と言われても覚えがないからね」
「そんなはずありません」
「むしろどうして君はそこまで断定できるんだ? これまで一度たりとも記憶間違いをしたことがないとでも言うのか?」
「ありますけど、それは何ヶ月とか何年とか前の話であって、数時間程度前のことなら断定できます。それも……これから何が起こるか想像もつかない、そんな状況でしたから忘れるわけがありません……」
 私はここに来ることになった引き抜きの日からあの扉の前のこと、そして総一と初めて言葉を交わした時のことを鮮明に思い出していた。しかし、総一が私の眼をジッと見つめてくる。「おかしいのは君だよ」と真っ向から否定してくるその瞳に、私はおもわずたじろいでしまった。そのせいでわずかながらに私の中で揺らぎが起こってしまった。惑わされてはいけないと自分自身を奮い立たせても、総一に見つめられているとなぜか脆くなってしまう。それから少しの間、互いに譲らず見つめ合っていると、やがて総一が肩をすくめて言った。
「まいったよ。君の言う通り、ちゃんと覚えているよ」
「……ふざけないでください」頭が熱くなるのを感じながら私は歯を食いしばって言った。
「だけど」しかし、総一は悪びれる様子もなく続けた。「記憶があるからって私が本物だという証拠にはならない。まだ感覚という手段があるからね」
「……感覚ですか?」
 もうこの人は止められない、と観念して私は歩調を合わせた。
「そう、感覚だ。さっき壁で扉を上書きしていたのとおなじように手を描き、さらに手の感触――皮膚のなめらかさ、肉の弾力、骨の硬さを感じさせれば、君はそこに人を感じるんじゃないかということだ。感覚はあくまでも傾向であり、人それぞれで感じかたは変わる。同じ暖かいでも人の言う暖かいと自分が言う暖かいでは表しているものがまったくちがうし、あるいはそれを冷たいと言う人もいるかもしれない。それに感じかたがちがうのはなにも他人だけじゃなく過去のじぶんともそうだ。子どものころと大人になってからではもちろんちがうけど、そんなに遠く離れた過去でなくても一年、一ヶ月、一日それこそたった一秒まえだとしても、感じかたは変わったりする。そのうえ人には常識や思い込みがあり、違和感があっても勝手につごうのいいように補完してくれる――――」
「つまり、何が言いたいんですか?」
 しかしすぐに総一の長広舌にうんざりして私は結論を急がせた。
「つまり、感じさせてしまえばそれまでということだ。感じさせてしまえば有るし、感じさせなければ無いんだ」
「ですが」似たようなことをちょっとまえにも言っていたな、と思い出しながら私は反論した。「いくら人や過去の自分と違っても、常識や思い込みに囚われていても、握手は相手と手をつながないとできないんです」
「いや、手がなくても握手はできる」間髪いれず総一も反論してきた。「君は当たり判定というものを知っているかい? ゲームなどに使われている手法だけど、簡単に言えば物と物が重なったとき当たっていると判定してそれ以上動けないようにし、そこにあたかも物があるかのように演出するというものだ」
「それぐらいは知っていますけど……でも、そんなのできるわけが……そんなの無茶苦茶です」
 総一の話がもし真実なら、私は扉の前に着いた時から……いや、もっと前から独り芝居をしていた、なんて馬鹿げたことがありえてしまう。
「では、ACや君のその眼は無茶苦茶ではないと」
「そんなことは言ってません――――」
「なら、たいしたことではないということだ」私の言葉をさえぎって総一は言った。
「君の言う無茶苦茶はあんがい簡単に実現してしまうものなんだよ。事実、いま身の回りに当たり前にあるものも過去を振り返ればずいぶん無茶苦茶なものばかりだ。それに君も私もACはおろか自分の生きている現実のことすら満足に知っていないんだ、いまさらなにがあったって」
 なげやりのようにまた悟ったようにも総一は言った。私はここに来てから自分がいかに無知であるのかをつくづく感じさせられた手前、何も言い返せなかった。沈黙が小さな箱を満たす。
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