AC8.5

文字数 2,246文字

 ――――走り続けた。ただただひたすらに走り続けた。走っていれば抱えているもの全てを置き去りにできる気がして、とにかく走った。
 そうして目的もあてもなく走り続けてついに足が自分の意志に反して止まり、そのまますぐそばの壁に寄りかかって糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。そして肩を大きく上下させながら、時間をたしかめ、地図をひらいた。残りは一時間と五十分、迷路はほんのちょっと埋められた。また鍵の一つさえ見つからなければひとっこひとりとも出会わなかった。おそらく参加者の人数は二桁どころか片手で足りるほどなんだろう。それならこの広大な迷路で出会えるはずもなく、人数以上用意されていたとしても鍵なんか見つかりっこない。ある意味であの人とは運命の出会いを果たしたわけだ。そんなくだらないことが頭に浮かび、こんな状況になってまでもまだそんな余裕がある自分にあきれる。ここで前の自分だったら自戒でもするんだろうけど、今の自分はその気にもなれない。それほどまであの選択は重く、その場で倒れなかっただけで引き金は引いていたんだ。そしてその見えない銃創から知らず知らず流血し、いま尽きようとしている。
 希望は潰えて、足も動かない。もう打つ手がないとぼうっとどこをとなく地図を眺めていたら、ふと書き込まれている線の形に目がとまった。さっき見ていた時は何とも思わなかったけれど、改めて眺めてみると右へ行ったり左に行ったり上へ行ったり下に行ったりとジグザグしたその足跡が、まるでぐずぐずとしている自分の不甲斐なさをあらわしているようでよけいに情けなくなった。その暗示から逃げるように地図を小さくして端においやって、小さなため息をこぼすと、自分のすぐ横の道から音が聞こえた。驚いて飛び起き、急いで耳を澄ませると、その音が規則的でかつだんだんと近づいてきていることがわかった。誰かが来る。思いがけない事態にじゃっかん頭を混乱させつつ、どうするべきか思案した。
 いまいるところはアルファベットのHの形をしていて、自分はその左下に、音は右上のほうから聞こえている。ここで自分が取れる選択肢は、真っ直ぐに進むか、引き返すか、右下へ進むか、ここで様子見か、あるいはあえて身をさらすかの五つ。しかし、前に飛び出るなんてのは論外だから実質的には四つ。問題は足音の主がどの道を選ぶかだ。どの道も来る可能性は同等にある。決め手に欠けあれこれ悩んでいるあいだにも確実に足音は近づいてきている。もう時間がない。思い切って下した決断はここにとどまることだった。自分の足の具合、銃という飛び道具の存在、足音がどの道を選ぶかという運要素など諸々の事情を考慮して、パイプを手にしているならいっそ玉砕覚悟で待ち構えていたほうがいいと思ったのと、それにどんな人なのか確かめたい気持ちがあったから。
 さらに足音は大きくなり、いよいよという時が迫ってきた。自然とパイプを握る手に力がはいり、じわっと汗がにじむ。しだいしだいに近づく足音につられて大きくなる鼓動に、今度ばかりは神頼みをして待ち受けていると、あっと言う間もなく一人の男性が向こうの通路を横切っていった。その人を見て自分は呼吸も忘れるほどの衝撃を受けた。一瞬の間だったけど、その男性が誰なのかわかったからだ。
 数秒後、我に返った自分が大慌てで男性のあとを追って右へ曲がると、少し離れたところで左に曲がっていくうしろ姿が見えた。その背中を見失わないように、そして一秒でもはやく追いつけるように、棒のようになった足をもう一度全力で動かした。まもなく同じ場所を左に曲がっていくと、今度は少しだけ大きくなった背中がまっすぐ走っているのが見えた。止まれとわめく体を懸命に動かし、前を行く背中が徐々に徐々に近づいてくるけど、その背中に声を届かせようにも呼吸をするだけが精一杯で、なによりもいろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざりあって声にならない。ならせめて足音で気づいてほしいと強く地面をたたくが、無情にもやがて男性は右に曲がっていった。その数秒後に自分も曲がった。
 しかし、最悪なことにその先は十字路になっていて、しかも不思議なことに男性はこつぜんと姿を消してしまった。あれだけ聞こえていた足音も不気味なほど静まり返っていた。そのあまりの変わりように現実逃避のすえ幻想を作り出したのかと思ったが、ここがどこだか思い出し自分の中で何かが爆発した。しかし、その爆発も氷水をかけられたかのようにサッと冷め、電源を断たれた機械みたいにその場に立ちつくした。
 こんなことになるぐらいなら悪あがきなんてせずに潔く全部渡してしまえばよかった。そうすれば自分を犠牲にして人助けをしたんだと言い訳もできて、哀れな思いを多少はまぎらわせて最期を迎えられたかもしれない。……そうだ、それでよかったんだ。誰かを助けたんだって自分を慰めて、それで痛みも苦しみもなく一瞬にして死んでしまえばよかったんだ。途端にすべてがどうでもよくなりもうやめようと投げ出そうとして、まだ自分は鍵を持っていることを思い出し、この鍵を持ったまま棄権することはできるのか彼女に尋ねようとした、その時
「ちょっと、いいか」
 と右の道から声をかけられた。てっきりいないものと思っていたものがふたたび現れ、体を大きくびくつかせてゆっくりと振り向いた。すると、血色を失った顔で驚き目を見開いている男性と目が合った。
「……父さん」その男性に対して自分はそう呼びかけた。
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