AC3.2

文字数 2,392文字

 とにもかくにも自分のやることはいたって単純なもので四つあるうちの最後のテストに合格するだけ。肝心のテスト内容は教えてもらえなかったけど、彼女が言うには最初の三つは優しく合格すれば最後のテストで有利になるものがもらえ、できればそれを二つ以上獲得しておいたほうがいいとのこと。そして最後のテストは不合格になっても何度も挑戦できて、かつ有利になるものは次回に持ち越せる。これがここまでの説明の大まかな内容で、他に知りたいことといえばそもそもなんでこんなことをするのか、その目的だ。でも素直に教えてくれるとはとうてい思えないし、かりに「○○です」と言われたところでそれが本当なのかどうかわからない。極端な話、今のやりとりも全て嘘で本当はここから出す気なんてさらさらないことだってありえる。
「…………」穏やかな心音が胸の中に響いている。
 実はそんなことを思いながらも無条件で彼女を信じてしまっている自分がいる。根拠もなく彼女なら大丈夫だと思ってしまっている自分がいる。その原因が彼女の声にあるのはわかっている。問題は、彼女とは初めて会ったはずなのに、どうして張りつめた緊張が否応なしにほどけるような安心感を覚えるのか。不吉な光景が目に映っていても、穏やかでない会話を繰り広げていても、家で話しているかのようなどこか日常的なものを感じてしまう。かつて感じたことのないやすらぎとこの不可解な状況とに現実と夢の狭間にいるような感覚が自分を取り囲む。
 そこで自分は再度部屋を見た。四方を囲むコンクリートの曇天のような灰色やザラザラとした質感に目を見張り、閉ざされた静寂のなかのベッドのかすかな軋みや血の流れに耳を澄ませ、ほのかにあるようなないようなこの部屋独特の匂いに鼻を利かし、シーツのサラサラとした生地と制服のしっかりとした生地に手を這わせた。そうして感覚を研ぎ澄ませ自分が今どこにいるのか、そしてどんな状況にあるのか、再確認した。
「ぼうっとしているようですが、大丈夫ですか?」
 そんなことをしていると不審に思ったのか彼女が聞いてきた。自分は我に返って「……大丈夫です」と答えた。すると
「ならいいんですが……」やや不満気な様子のあと「それで何か聞きたいことは見つかりましたか?」と例の声で言った。
 試みも虚しく自分はまた気が緩んでしまった。その抗いようのない安心感に胸にもやもやを残しつつもどうしようもないと諦めることにした。今は声なんかより重要なことがある。自分は意識を質問へと戻し、しかしまったく別のことを考えていましたとはもちろん言えないので、物は試しで一番気になっていることを聞いてみることにした。
「その……なんのためにこのテストをやるんですか?」
「すみませんが、答えられません」
 彼女の返答はたったひとこと。予想通りの結果に特に思うところもなく、他には……と考えはじめた瞬間、あることが閃き、どうして今の今までそれも過去を思い出していながらこのことに考えが及ばなかったのか我ながら驚いた。さっそく聞いてみようとしたその時、
「もし御両親や警察の助けを期待しているなら無駄ですよ。絶対に誰であろうとあなたを助けることはできませんから」
 彼女に心臓を握り潰された。
「他には何かありますか?」
 そして再度聞いてきた。
 自分は茫然としていて反応できず、しばらくたってからようやく首を振った。
「わかりました。それでは扉を開けますので最初の会場へと向かってください。一本道なので迷うことはないと思いますが、もし何かあったらいつでも呼んでください」
 ここでの役割を終えたらしい彼女はそう言ったあと裏へと引っ込んでいった。たちまち重苦しい空気がのしかかってきて、うつむいたまま動けずにいた。
 今のはいったい何だったのか。まるで自分の心を読んだかのような、あの発言は。実際、自分が閃いたのはまさに彼女の言った通り両親と警察のことだった。ただ質問自体は別の事で、現在の時刻を聞こうとしていた。というのも、そのまま聞くのはマズいと思ったのと本当のことを教えてくれるとはかぎらないけど知りたくはあったから。しかし彼女は自分が尋ねる前に、言ってしまえば思いついた瞬間に言ってのけた。はたしてそんなことが可能なのか。この状況下であれば自分が外部の助けに考えがいたるのを読むのはわりと簡単なことだと思う、だけどそう考えたその時にというのはいくらなんでも……。あてずっぽうで言ったのが当たったというのもあるけどそれは違うと思う。そのあとの「他には何かありますか?」の自信ありげな言い方はわかっていた。なら本当に……。
 そうして突然降りかかってきた信じ難いやりとりに心を囚われていたら、自分がとんでもない思い違いをしていることに気がついた。その恐ろしい可能性に愕然としてしばらくのあいだ頭が真っ白になってしまった。
「どうしました? テストを受けに行かないのですか?」するといつまでも座ったままの自分に彼女が聞いてきた。
「あ……いえ」しかし、どう答えたらいいのかわからず言い淀むと
「まあ、それならそれで私としてはいいんですけど。長くはありませんが最期のその時まで二人っきりで、話し相手ぐらいにはなれますから」まるで本当にそうなることを望んでいるかのように嬉しそうな調子で彼女は言った。
 自分は彼女の夢見る声色にその光景をハッキリと想像してしまい反射的に立ち上がった。そんなことになるぐらいなら何が待ち受けているかわからなくてもあの扉を選ぶ。視線を扉に移し歩みを進めた。扉は相変わらず泰然と構えている。この先にどんなことが待ち受けているのか、なぜこうなってしまったのか、不安がとめどなく押し寄せ激しく心を痛めつける。せめてちょっとでも心が落ち着いてくれたらと深呼吸をして、ぎゅっと一度だけ左手を握りしめたあと、扉に手をかけた。
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