AC8.8

文字数 2,035文字

 話が終わってから数十分、姉さんのところまでだいぶ近づいた。しかし、鍵はいぜんとして見つけられずにいる。この状況にさっきまでの楽しかった気分も心の中でたちこめる暗雲に飲みこまれ、前を走る父さんもそのことを意識しているのか、二人の間から呼吸と足音いがいの音は消えてしまった。このまま本当に姉さんのところへ向かっていていいんだろうか、暗い影が落ちた心の中に疑問が芽生える。聞いたほうがいいのか、聞かないほうがいいのか悩んで、やっぱり父さんがどう思っているのか知りたいので聞こうとした瞬間、
「ちょっと待った」と父さんが右手で制止の合図を出した。慌てて自分も足を止めて「どうしたの?」と聞くと「足音がする」と小さく答えた。
 別のことに意識をとられていたからびっくりしてわずかにかたまったあと、いそいで聞耳を立てた。すると、たしかに足音が耳に入ってきた。その速さからしてどうやら走っているらしい。
「こっちにいるみたいだな」そう言って父さんが左を指さした。
「……反対方向だけど、右に行ったほうがいいと思う」
 地図を開きながら自分は言った。自分の現在位置を示す三角形から左へすこし離れたところに明滅する赤点がある。足音はそちらのほうから聞こえ、しかもだんだんと小さくなっている。とはいえ気が変わらないとも限らないので、接触をさけるためにも父さんにそう提案した。しかし、父さんは前を向いたまま答えなかった。その沈黙に漠然とした何かを感じ取り、自分も黙ってしまった。
 重い静寂がすこしだけ流れ、やがて父さんが振り返った。その拍子に眼と眼がぶつかり、衝撃が自分を貫いた。そして父さんは口を開いた。
「そのパイプを貸してくれないか」
 言われてすぐにはなにを言っているのか理解できず、頭の中で何度も反芻してようやく理解できた。それで父さんを止めるためにあわてて口を開いた。
「いや、ダメだよ。右に行こう。もしかしたらそっちにあるかもしれないし」
 しかし、父さんは首をふった。
「もう時間がない。このまま鍵を見つけられなかったら取り返しのつかないことになってしまう。この機会は逃せない」
 いままで聞いたことのない低く真剣な声に、見たことのない鋭く有無を言わさない眼光に、自分は気圧され言葉を飲みこみかけたが、
「それだけは……たとえ取り返しがつかなくなったとしても、それだけはダメだ。絶対に間違ってる。だから……右に行くべきだよ」
 負けじと調子を強めてぶつけた。すると、驚いたことに父さんは微笑んだ。しかし、すぐに真面目な顔つきにもどって
「ああ、そうだ。お前の言う通りまちがっている。それでも私はやらなければならないんだ」
 父さんは言った。自分の言葉にどうして微笑んだのか気になって仕方がないけど、今ははやく父さんを止めなければ。しかし、目の前にいる父さんからはそれを無理と思わせる強い意志を感じる。ハッキリとした低く力強い声、その奥に不安に揺れながらも熱く迸るなにかをたたえた眼差し、そして真ん中に一本芯が通ったような佇まい、それらすべてが父さんの意志の揺るがなさを物語っていて、この姿こそ自分が追い求めていたものだった。存在すら揺らいでいる自分には父さんを引きとどめるなんて到底無理で、それならと
「だったら自分も一緒に行くよ。父さんだけにそんなことをさせられない」そう食い下がった。すると、父さんはより一層声を強めて
「ダメだ」と制した。「お前はここで私のことを待っていてほしい」
「……でも」と弱々しい声をもらす。
 引きとめたくても引きとめられない、今の自分は、胸の中にある小さな思いすらもまともに伝えられず、ただ袖をつかんでだだをこねるだけの子どもだ。
「大丈夫だ」そんな自分に父さんは困ったように笑っていった。「かならず戻ってくる…………でも、もしも万が一戻ってくる気配がなかったら……そのときは」しかし、最後は顔を曇らせ言い切らなかった。
 そしてそんな暗い顔を隠すように笑顔をとりつくろったあと、パイプを握る自分の手をやさしく包みこんだ。するとパイプがするりと抜けてしまった。自分は唖然とした。渡すまいとかたく誓っていたのに、そうするのが自然であるかのようにあっけなく渡ってしまった。そして我に返るよりもはやく、父さんは去っていった。
 その背中が曲がり角のむこうに消えてからやっと意識を取り戻した自分は、その後を追いかけようとして脚に力をこめた。が、まるで釘付けにされてしまったかのように動かない。それもそのはずだった、自分では渾身の力をこめているつもりでも、その実まったくこれっぽちも入れていないからだ。父さんを失ってしまうかもしれないその恐怖に脚が泣いているように打ち震え、入れようとしているそばから力がぽろぽろとこぼれてしまっている。自分の意気地のなさが悔しくて涙をにじませて奥歯をかみしめる。その瞬間、
 ――――!!
 視界が真っ白に染まった。
 そして頭が割れそうなほどの耳鳴りが襲ってきた。
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