三.
文字数 5,911文字
プリモとハリアーが土の小道を行くこと、ほぼ半時。
二人は石畳の街道に足を踏み入れた。
幅の広い街道には、多様な人々が往来している。
近隣の集落を往復する軽装の市民、一杯の荷物を背負った商人、そして武具を身につけた冒険者。そんな人々の間を、山盛りの商品を運ぶ馬車がことことと通り抜けてゆく。
平たいパンプスで石畳を歩くプリモは、すぐ隣からの声に一瞬歩みを止めた。
「ねえ、プリモ。足は大丈夫? 歩く速さが落ちてきたけど、足痛くなってない?」
紅のブーツを履き、軽快に足を進めるハリアーが立ち止まってプリモを見ていた。気遣わしげな視線と言葉が、プリモに注がれている。
「プリモは歩き慣れてないし、靴も新しいから、歩くの辛いよね」
ハリアーの言うとおり、下ろしたての靴で石畳を歩き続け、プリモの足の裏には一歩ごとに痛みが走っていた。だが彼女は、気丈に微笑んで答える。
「いいえ、大丈夫です。あんまり長時間歩いたことがないのは、確かですが」
そう言ってまた一歩踏み出したプリモだった。だが爪先に力が入らず、その膝が、かくんと崩れる。
「あ、おっとと」
プリモの体が前のめりに倒れるより早く、ハリアーの手がプリモ支える。彼女を抱きかかえる護衛ハリアーが、紫紺の瞳を曇らせた。
「ホントに大丈夫? プリモ」
重ねて問われ、プリモはうつむいた。何となく抵抗感と良心の呵責を覚えつつ、彼女は思い切って正直に答える。
「ちょっとつま先が……」
ハリアーに聞かれるまで、痛みに気が付かずにすたすた歩いてきたプリモだった。が、一度歩みを止めた途端に、石畳に痛めつけられた足の裏とつま先が、ずきずきと脈打つ。
「少し休もう」
拳闘士風ハリアーの手を借りて、プリモは街道脇の古木の陰に腰を下ろした。
「ほら、ちょっと見せてごらん」
そう言うハリアーに、プリモの真新しいパンプスがそっと脱がされた。
プリモの白く繊細な爪先は、血こそ出てはいないものの、赤くはれ上がってしまっている。
その状態を見るなり、ハリアーが眉根を寄せた。痛々しげに頭を振り、彼女が同情的な吐息をつく。
「あー、これはだいぶ痛いね。もう結構歩いてるからな……」
「ごめんなさい……」
黒龍の塔に籠って生活してきたプリモ。休むことなく家事をこなし、決して歩いていないワケではない。しかしただひたすらに道を歩く、そういう経験は初めてだ。何だか申し訳なさが胸につかえて、彼女はうなだれた。
ハリアーが、気遣いがいっぱいに溢れた笑顔を浮かべ、首を横に振る。
「謝るコトなんかないよ。もっと歩きやすい靴を用意しなかったあたしが悪いんだから。謝るのはあたしの方。ゴメンね」
深い吐息とともにハリアーが詫びたとき、不意に甲高い中年男の声が聞こえてきた。
「よう、ねえさん方」
ちょっと訛ってはいるものの、きちんと聞き取れる共通語だ。
「どうしなさったね? 何か難渋されてるみたいだが」
プリモが顔を上げでみると、彼女たちが座る古木の脇に、何やら旗を立てた一頭立ての荷馬車が横づけされていた。その座席にいるのは、実に小さな男だ。
背丈は人間の六歳児程度だが、頭や手足の長さなど、体の各部はちゃんと均整が取れている。
普通の大人をぎゅっと縮小した、そんな印象だ。
麦わら色の柔らかな髪に、黒曜石のような漆黒の目。年は四十がらみだろうか。緑色の服の上から、黄色っぽいベストを着ている。穏やかな笑顔を見せてはいるものの、その表情はどこか曖昧で捉え処がない。
黒毛の馬の手綱を握り、にこやかな表情を見せるこの小人を見て、ハリアーが意外そうな声を上げた。
「を? グラムじゃないか。何でこんな所にいるんだ?」
名前を呼ばれた男は、一瞬しまった、というような表情を見せた。どうやらこの男は、ハリアーのことを知っているらしい。
グラムと呼ばれたこの男が、ほろ苦くも温かみの滲む息を洩らした。
「何だ、ハリアーだったのかい。あんたにこんな所で遇うたあ、思わなかった」
しかしグラムは、すぐに元の曖昧な笑顔に戻った。ハリアーとプリモを見比べながら、この男が気のいい調子で聞いてくる。
「それはそうと、実際あんたはこんなとこで何してるんだ? “流星雨”の」
「アリオストポリのバザールに行くところなんだけど、このコが足傷めちゃってさ」
正直に答えたハリアーが、グラムの黒いまなこを正視した。不意に思い付いた風に、いきなりグラムに言う。
「そうだ、お前もアリオストポリへ商売に行くんだろ? ちょうどいいから乗せてけよ」
お願いにしては命令口調だが、グラムに怒った様子はない。慣れっこになっているのか、彼が皮肉っぽく笑って肩をすくめた。
「まあいいか。あんたの言うとおり、アリオストポリへはひと稼ぎに出向くところさね」
彼が楓のような小さな手で、自分の乗る幌なしの荷馬車を示した。プリモとハリアーを交互に見遣り、好意的な笑顔でグラムが二人を誘う。
「ほら、良かったら乗りなぃ。中央広場までなら、乗っけてくよ」
「ありがと。助かるよ」
素直に礼を言ったハリアーが、にっこりと十代少女の快活な笑顔を浮かべた。実に爽やかで、可愛い笑顔だ。
グラムも釣られて笑みを返した途端、ハリアーが両手を腰に当て、眉を険しく寄せた。中年男の顔に鼻先を寄せ、彼女は強い口調で釘を刺す。
「いいか? このコはやんごとなきお嬢さまなんだから、丁重に扱えよ」
「へいへい」
可愛い笑顔も吹き飛んだ、ハリアーの豹変ぶり。
グラムが苦笑交じりに肩をすくめた。
そんな彼とハリアーを見比べて、プリモは口を開きかけた。
“わたしはただのメイド……”、というそのプリモの言葉は、しかしハリアーの「黙れ」という無言の仕草と視線に触れて、慌てて喉の奥へと戻された。
思わず口をおさえたプリモに、グラムが片手を差し延べる。
「さ、どうぞ、お嬢さん。乗っておくんなさい」
「あっ、ありがとうございます」
プリモは、グラムの子供のような手を借りて、荷馬車の座席に上がった。彼女がグラムの左にちょんと腰かけるのと同時に、ハリアーもひらりとグラムの右に跳び乗った。
少女たちが自分の左右に座ったのを確認して、グラムが黒毛の馬に一鞭当てる。
「じゃ、行くよ」
プリモとハリアーを乗せた荷馬車は、ことことと走り出した。
鬱金の旗が翻る馬車に揺られながら、プリモは膝の上に両手を揃えた。そして手綱を執る隣のグラムに、丁寧に頭を下げる。
「困っていたところを助けて頂いて、ありがとうございました」
ちょっぴり自責の念に捉われて、プリモは重苦しく目を伏せる。
「お急ぎのところ、お手間を取らせてしまって、ごめんなさい」
だがグラムは、前を向いたまま、鼻をこすって頭を振る。その横顔は、ちょっと照れ臭そうだ。
「なぁに、困った時はお互いさまでさ。それにそんなに急いでいた訳でもないから、気にしないでおくんなさい」
グラムがプリモの顔をチラ見してきた。その中年男の顔は、いかにも嬉しげに、にんまり笑っている。
「それに、こんな美人を見捨てたとあっちゃあ、あっしの名折れってもんでさ」
軽快な口調でそう言って、グラムがまた街道の彼方へと真っ直ぐに目を戻す。
顔を上げたプリモは、彼の笑顔を横から見つめ、小首を傾げるようにして尋ねた。
「あの、お名前をお聞きしてもいいですか?」
「あっしですかい? あっしは……」
ぽっと頬に赤みが差したがグラム答えるより早く、ハリアーがサッと口を挟んだ。
「こいつはグラム。“微小人 ”のケチな屑屋さ」
途端に、この微小人グラムが、ムッと口許を曲げた。
「人聞きが悪いから、古道具屋と言っておくれよ」
「へっ、故買屋 の間違いだろ」
二人のやり取りが理解できないプリモは、ハリアーに視線を移した。
「あの、『くずや』とか、『こばいや』って何ですか?」
待ってましたとばかりに、ハリアーが白い歯を見せて、にやりと笑う。
「いいかい? 屑屋っていうのは、何の役にも立たないガラクタを、何も知らないお客に高く売りつけるあくどい商売さ。で、故買屋は、泥棒が盗んできた物を買い取って売る仕事だよ」
『あくどい商売』に『泥棒』、などと陰惨な言葉を聞き、プリモはにわかに不安を覚えた。
眉根を寄せて、彼女は重苦しくつぶやく。
「怖いお仕事があるんですね」
「そうとも」
ハリアーも深刻そうに顔をしかめ、大げさな仕草でうなずいた。
「だからプリモも気を付けるんだよ」
「ちょ、ちょっと!」
たまらずに、グラムが慌てた声を上げた。
「変な説明はやめておくれよ! このお嬢さん、おかしな誤解をしてるじゃないか!」
手綱を握ったままのグラムは、にやにや笑いのハリアーを睨んで抗議した。すぐに正面に目を戻しつつも、彼はぶつぶつとこぼす。
「怖い仕事なんて、“賞金稼ぎ”の方がよっぽど怖い仕事じゃないか」
「まあそう言うなって、グラム」
全く意に介さない様子で、賞金稼ぎハリアーはけらけらと笑う。
「お前が諸国の王侯貴族に重宝がられるスゴ腕商人だっていうのは、認めるからさ。謎が多くて胡散臭いけど」
「褒めるかけなすか、どっちかにしてくれよ、流星雨の。まあ、あんたに褒められても、何だか嬉しくないんだが」
グラムは諦めが漂う鼻息を一つ洩らしつ、ハリアーに視線を戻した。
「それはそうと、今日はなんだってアリオストポリヘ行くんだい? このお嬢さん、えーと、お名前何と言いなすったかな?」
グラムの言葉と目線を受けて、プリモはくすっと笑った。
「プリモです。よろしくお見知り置き下さい」
「こちらこそ。こんな美人と知り合えて嬉しいね」
そこでグラムは不思議そうな表情を見せた。
彼はプリモのラピスラズリの瞳を注視している。
「それにしても、変わった目をしていなさるね。あっしが知る限り、どんな人種とも違うようだが」
初対面の男性から、ほぼ間違いなく出てくる言葉だ。もう慣れてしまっているとはいえ、聞かれて楽しい問いとは言えない。漠然とした胸の痛みを覚えつつ、プリモは気の抜けた口調で尋ねてみた。
「やっぱり、カエルの目は、気持が悪いですか?」
自嘲的な響きを帯びた彼女の問いは、しかし、グラムによって軽く笑い飛ばされた。
「全然。体の特徴なんざ、大した問題じゃありやせんや。ごらんなさいよ、あっしの体」
彼は気持ちの沈むプリモに向かって、自分の小さな体格を指し示す。
「あっしら微小人 は、人類の中じゃあ一番のチビですがね。あっしときたら、その中でもとびっきりのチビ助でさ。でもね、あっしは見下ろされてるつもりなんざ、さらっさらありませんぜ。あっしはね、いつだって見上げて生きてるんでさ」
明るく笑いながら、グラムは空を指差した。釣られて天を仰いだプリモの目に、金色の太陽がまぶしい。
「体なんざ、人それぞれ。デカかろうがチビだろうが、目の色がどうでも、人間 だって異人 だって、お天道さんは付いて回るってもんでさ。結局、肝心なのは、見てくれよりも心意気ってもんですぜ。それに……」
そこでグラムが、馬車の荷台で翻る旗に指を差す。
プリモの視線が、彼の小さな指先を追った。
この小さな男がが示すのは、三角の切れ込みが入った横長の黄色い旗だ。濃い鬱金地に、赤と青のケープを羽織った真っ黒なカエルが、前足を振りながら踊るような姿で染め抜いてある。
「それに、カエルはあっしの標章。カエルなら、あっしは大歓迎でさ」
グラムが自然体で綴った言葉を聞き、プリモの心の澱は一気に洗い流された。
熱く透明な涙が滲む瞳をグラムに向けたプリモ。しかし、震える唇からは声が出てこない。感謝の言葉に替えて、プリモは深々と頭を下げた。
そんな感極まるプリモの耳に、ハリアーのふふっという温かな笑いが聞こえた。
「世の中には、いろんなヤツがいるだろ? これだけでも、塔から出た甲斐があったね。やっぱり、時々は塔から街へ出ないとな」
プリモは心からの賛意を込めて、大きくうなずいた。
と、同時に、目許を拭うプリモは、心に浮かんだ疑問をそのまま口に出してみる。
「あの、ハリアーさんとグラムさんは、どういうお知り合いなんですか?」
「ん? 『どういう知り合い』?」
プリモの言葉を繰り返したハリアーが、グラムと一瞬顔を見合わせた。
と、何か言おうとしたハリアーの出鼻をくじいて、グラムが急いで答えを被せた。その声は、変に上ずって響く。
「あー、あっしらは、“依頼人”と“請負人”でさ」
「『いらいにん』と『うけおいにん』?」
プリモは、まじまじと彼の顔をみつめた。
グラムのどこか引きつった顔には、また何かおかしなことを言われてはたまらない、そんな焦りが浮かぶ。
「あっしは商人でさ。世の中にゃあ、いろんなひとがいなさってねえ。時にはあっしの手に余る注文やらもあるんでさ。そんなとき、あっしは冒険者を雇うんだが……」
グラムがハリアーをチラ見した。紅蓮の拳闘士ハリアーは、組んだ脚の膝小僧を悠然と抱え、鼻歌交じりに青い空を仰いでいる。
そんなハリアーから、グラムがプリモへと視線を移す。
「あっしらは、ハリアーが冒険者駆け出しの頃からの付き合いでね。腕もきっぷも、それに器量だって申し分ないんだが、口の悪さだけは、どうにかならんもんかねえ……」
グラムが深い吐息交じりの苦笑を洩らした。その微笑ましげでありながら、どこか困った表情は、どこかやんちゃな娘を案じる父親のような雰囲気が漂う。
ついくすっと笑ってしまうプリモだった。
そこでグラムが、ハリアーに不思議そうな視線を注ぐ。
「ところで流星雨の」
彼はハリアーの腰に視線を落とした。彼女の鮮やかにくびれた腰の左右には、二本の角が突き出した、あの小さな丸盾が下げられている。
「最後の依頼から半年ぶりくらいかな? 今日は剣を持ってないが、賞金稼ぎから足洗って用心棒に転職かい? マドゥなんか二つも持って」
二人は石畳の街道に足を踏み入れた。
幅の広い街道には、多様な人々が往来している。
近隣の集落を往復する軽装の市民、一杯の荷物を背負った商人、そして武具を身につけた冒険者。そんな人々の間を、山盛りの商品を運ぶ馬車がことことと通り抜けてゆく。
平たいパンプスで石畳を歩くプリモは、すぐ隣からの声に一瞬歩みを止めた。
「ねえ、プリモ。足は大丈夫? 歩く速さが落ちてきたけど、足痛くなってない?」
紅のブーツを履き、軽快に足を進めるハリアーが立ち止まってプリモを見ていた。気遣わしげな視線と言葉が、プリモに注がれている。
「プリモは歩き慣れてないし、靴も新しいから、歩くの辛いよね」
ハリアーの言うとおり、下ろしたての靴で石畳を歩き続け、プリモの足の裏には一歩ごとに痛みが走っていた。だが彼女は、気丈に微笑んで答える。
「いいえ、大丈夫です。あんまり長時間歩いたことがないのは、確かですが」
そう言ってまた一歩踏み出したプリモだった。だが爪先に力が入らず、その膝が、かくんと崩れる。
「あ、おっとと」
プリモの体が前のめりに倒れるより早く、ハリアーの手がプリモ支える。彼女を抱きかかえる護衛ハリアーが、紫紺の瞳を曇らせた。
「ホントに大丈夫? プリモ」
重ねて問われ、プリモはうつむいた。何となく抵抗感と良心の呵責を覚えつつ、彼女は思い切って正直に答える。
「ちょっとつま先が……」
ハリアーに聞かれるまで、痛みに気が付かずにすたすた歩いてきたプリモだった。が、一度歩みを止めた途端に、石畳に痛めつけられた足の裏とつま先が、ずきずきと脈打つ。
「少し休もう」
拳闘士風ハリアーの手を借りて、プリモは街道脇の古木の陰に腰を下ろした。
「ほら、ちょっと見せてごらん」
そう言うハリアーに、プリモの真新しいパンプスがそっと脱がされた。
プリモの白く繊細な爪先は、血こそ出てはいないものの、赤くはれ上がってしまっている。
その状態を見るなり、ハリアーが眉根を寄せた。痛々しげに頭を振り、彼女が同情的な吐息をつく。
「あー、これはだいぶ痛いね。もう結構歩いてるからな……」
「ごめんなさい……」
黒龍の塔に籠って生活してきたプリモ。休むことなく家事をこなし、決して歩いていないワケではない。しかしただひたすらに道を歩く、そういう経験は初めてだ。何だか申し訳なさが胸につかえて、彼女はうなだれた。
ハリアーが、気遣いがいっぱいに溢れた笑顔を浮かべ、首を横に振る。
「謝るコトなんかないよ。もっと歩きやすい靴を用意しなかったあたしが悪いんだから。謝るのはあたしの方。ゴメンね」
深い吐息とともにハリアーが詫びたとき、不意に甲高い中年男の声が聞こえてきた。
「よう、ねえさん方」
ちょっと訛ってはいるものの、きちんと聞き取れる共通語だ。
「どうしなさったね? 何か難渋されてるみたいだが」
プリモが顔を上げでみると、彼女たちが座る古木の脇に、何やら旗を立てた一頭立ての荷馬車が横づけされていた。その座席にいるのは、実に小さな男だ。
背丈は人間の六歳児程度だが、頭や手足の長さなど、体の各部はちゃんと均整が取れている。
普通の大人をぎゅっと縮小した、そんな印象だ。
麦わら色の柔らかな髪に、黒曜石のような漆黒の目。年は四十がらみだろうか。緑色の服の上から、黄色っぽいベストを着ている。穏やかな笑顔を見せてはいるものの、その表情はどこか曖昧で捉え処がない。
黒毛の馬の手綱を握り、にこやかな表情を見せるこの小人を見て、ハリアーが意外そうな声を上げた。
「を? グラムじゃないか。何でこんな所にいるんだ?」
名前を呼ばれた男は、一瞬しまった、というような表情を見せた。どうやらこの男は、ハリアーのことを知っているらしい。
グラムと呼ばれたこの男が、ほろ苦くも温かみの滲む息を洩らした。
「何だ、ハリアーだったのかい。あんたにこんな所で遇うたあ、思わなかった」
しかしグラムは、すぐに元の曖昧な笑顔に戻った。ハリアーとプリモを見比べながら、この男が気のいい調子で聞いてくる。
「それはそうと、実際あんたはこんなとこで何してるんだ? “流星雨”の」
「アリオストポリのバザールに行くところなんだけど、このコが足傷めちゃってさ」
正直に答えたハリアーが、グラムの黒いまなこを正視した。不意に思い付いた風に、いきなりグラムに言う。
「そうだ、お前もアリオストポリへ商売に行くんだろ? ちょうどいいから乗せてけよ」
お願いにしては命令口調だが、グラムに怒った様子はない。慣れっこになっているのか、彼が皮肉っぽく笑って肩をすくめた。
「まあいいか。あんたの言うとおり、アリオストポリへはひと稼ぎに出向くところさね」
彼が楓のような小さな手で、自分の乗る幌なしの荷馬車を示した。プリモとハリアーを交互に見遣り、好意的な笑顔でグラムが二人を誘う。
「ほら、良かったら乗りなぃ。中央広場までなら、乗っけてくよ」
「ありがと。助かるよ」
素直に礼を言ったハリアーが、にっこりと十代少女の快活な笑顔を浮かべた。実に爽やかで、可愛い笑顔だ。
グラムも釣られて笑みを返した途端、ハリアーが両手を腰に当て、眉を険しく寄せた。中年男の顔に鼻先を寄せ、彼女は強い口調で釘を刺す。
「いいか? このコはやんごとなきお嬢さまなんだから、丁重に扱えよ」
「へいへい」
可愛い笑顔も吹き飛んだ、ハリアーの豹変ぶり。
グラムが苦笑交じりに肩をすくめた。
そんな彼とハリアーを見比べて、プリモは口を開きかけた。
“わたしはただのメイド……”、というそのプリモの言葉は、しかしハリアーの「黙れ」という無言の仕草と視線に触れて、慌てて喉の奥へと戻された。
思わず口をおさえたプリモに、グラムが片手を差し延べる。
「さ、どうぞ、お嬢さん。乗っておくんなさい」
「あっ、ありがとうございます」
プリモは、グラムの子供のような手を借りて、荷馬車の座席に上がった。彼女がグラムの左にちょんと腰かけるのと同時に、ハリアーもひらりとグラムの右に跳び乗った。
少女たちが自分の左右に座ったのを確認して、グラムが黒毛の馬に一鞭当てる。
「じゃ、行くよ」
プリモとハリアーを乗せた荷馬車は、ことことと走り出した。
鬱金の旗が翻る馬車に揺られながら、プリモは膝の上に両手を揃えた。そして手綱を執る隣のグラムに、丁寧に頭を下げる。
「困っていたところを助けて頂いて、ありがとうございました」
ちょっぴり自責の念に捉われて、プリモは重苦しく目を伏せる。
「お急ぎのところ、お手間を取らせてしまって、ごめんなさい」
だがグラムは、前を向いたまま、鼻をこすって頭を振る。その横顔は、ちょっと照れ臭そうだ。
「なぁに、困った時はお互いさまでさ。それにそんなに急いでいた訳でもないから、気にしないでおくんなさい」
グラムがプリモの顔をチラ見してきた。その中年男の顔は、いかにも嬉しげに、にんまり笑っている。
「それに、こんな美人を見捨てたとあっちゃあ、あっしの名折れってもんでさ」
軽快な口調でそう言って、グラムがまた街道の彼方へと真っ直ぐに目を戻す。
顔を上げたプリモは、彼の笑顔を横から見つめ、小首を傾げるようにして尋ねた。
「あの、お名前をお聞きしてもいいですか?」
「あっしですかい? あっしは……」
ぽっと頬に赤みが差したがグラム答えるより早く、ハリアーがサッと口を挟んだ。
「こいつはグラム。“
途端に、この微小人グラムが、ムッと口許を曲げた。
「人聞きが悪いから、古道具屋と言っておくれよ」
「へっ、
二人のやり取りが理解できないプリモは、ハリアーに視線を移した。
「あの、『くずや』とか、『こばいや』って何ですか?」
待ってましたとばかりに、ハリアーが白い歯を見せて、にやりと笑う。
「いいかい? 屑屋っていうのは、何の役にも立たないガラクタを、何も知らないお客に高く売りつけるあくどい商売さ。で、故買屋は、泥棒が盗んできた物を買い取って売る仕事だよ」
『あくどい商売』に『泥棒』、などと陰惨な言葉を聞き、プリモはにわかに不安を覚えた。
眉根を寄せて、彼女は重苦しくつぶやく。
「怖いお仕事があるんですね」
「そうとも」
ハリアーも深刻そうに顔をしかめ、大げさな仕草でうなずいた。
「だからプリモも気を付けるんだよ」
「ちょ、ちょっと!」
たまらずに、グラムが慌てた声を上げた。
「変な説明はやめておくれよ! このお嬢さん、おかしな誤解をしてるじゃないか!」
手綱を握ったままのグラムは、にやにや笑いのハリアーを睨んで抗議した。すぐに正面に目を戻しつつも、彼はぶつぶつとこぼす。
「怖い仕事なんて、“賞金稼ぎ”の方がよっぽど怖い仕事じゃないか」
「まあそう言うなって、グラム」
全く意に介さない様子で、賞金稼ぎハリアーはけらけらと笑う。
「お前が諸国の王侯貴族に重宝がられるスゴ腕商人だっていうのは、認めるからさ。謎が多くて胡散臭いけど」
「褒めるかけなすか、どっちかにしてくれよ、流星雨の。まあ、あんたに褒められても、何だか嬉しくないんだが」
グラムは諦めが漂う鼻息を一つ洩らしつ、ハリアーに視線を戻した。
「それはそうと、今日はなんだってアリオストポリヘ行くんだい? このお嬢さん、えーと、お名前何と言いなすったかな?」
グラムの言葉と目線を受けて、プリモはくすっと笑った。
「プリモです。よろしくお見知り置き下さい」
「こちらこそ。こんな美人と知り合えて嬉しいね」
そこでグラムは不思議そうな表情を見せた。
彼はプリモのラピスラズリの瞳を注視している。
「それにしても、変わった目をしていなさるね。あっしが知る限り、どんな人種とも違うようだが」
初対面の男性から、ほぼ間違いなく出てくる言葉だ。もう慣れてしまっているとはいえ、聞かれて楽しい問いとは言えない。漠然とした胸の痛みを覚えつつ、プリモは気の抜けた口調で尋ねてみた。
「やっぱり、カエルの目は、気持が悪いですか?」
自嘲的な響きを帯びた彼女の問いは、しかし、グラムによって軽く笑い飛ばされた。
「全然。体の特徴なんざ、大した問題じゃありやせんや。ごらんなさいよ、あっしの体」
彼は気持ちの沈むプリモに向かって、自分の小さな体格を指し示す。
「あっしら
明るく笑いながら、グラムは空を指差した。釣られて天を仰いだプリモの目に、金色の太陽がまぶしい。
「体なんざ、人それぞれ。デカかろうがチビだろうが、目の色がどうでも、
そこでグラムが、馬車の荷台で翻る旗に指を差す。
プリモの視線が、彼の小さな指先を追った。
この小さな男がが示すのは、三角の切れ込みが入った横長の黄色い旗だ。濃い鬱金地に、赤と青のケープを羽織った真っ黒なカエルが、前足を振りながら踊るような姿で染め抜いてある。
「それに、カエルはあっしの標章。カエルなら、あっしは大歓迎でさ」
グラムが自然体で綴った言葉を聞き、プリモの心の澱は一気に洗い流された。
熱く透明な涙が滲む瞳をグラムに向けたプリモ。しかし、震える唇からは声が出てこない。感謝の言葉に替えて、プリモは深々と頭を下げた。
そんな感極まるプリモの耳に、ハリアーのふふっという温かな笑いが聞こえた。
「世の中には、いろんなヤツがいるだろ? これだけでも、塔から出た甲斐があったね。やっぱり、時々は塔から街へ出ないとな」
プリモは心からの賛意を込めて、大きくうなずいた。
と、同時に、目許を拭うプリモは、心に浮かんだ疑問をそのまま口に出してみる。
「あの、ハリアーさんとグラムさんは、どういうお知り合いなんですか?」
「ん? 『どういう知り合い』?」
プリモの言葉を繰り返したハリアーが、グラムと一瞬顔を見合わせた。
と、何か言おうとしたハリアーの出鼻をくじいて、グラムが急いで答えを被せた。その声は、変に上ずって響く。
「あー、あっしらは、“依頼人”と“請負人”でさ」
「『いらいにん』と『うけおいにん』?」
プリモは、まじまじと彼の顔をみつめた。
グラムのどこか引きつった顔には、また何かおかしなことを言われてはたまらない、そんな焦りが浮かぶ。
「あっしは商人でさ。世の中にゃあ、いろんなひとがいなさってねえ。時にはあっしの手に余る注文やらもあるんでさ。そんなとき、あっしは冒険者を雇うんだが……」
グラムがハリアーをチラ見した。紅蓮の拳闘士ハリアーは、組んだ脚の膝小僧を悠然と抱え、鼻歌交じりに青い空を仰いでいる。
そんなハリアーから、グラムがプリモへと視線を移す。
「あっしらは、ハリアーが冒険者駆け出しの頃からの付き合いでね。腕もきっぷも、それに器量だって申し分ないんだが、口の悪さだけは、どうにかならんもんかねえ……」
グラムが深い吐息交じりの苦笑を洩らした。その微笑ましげでありながら、どこか困った表情は、どこかやんちゃな娘を案じる父親のような雰囲気が漂う。
ついくすっと笑ってしまうプリモだった。
そこでグラムが、ハリアーに不思議そうな視線を注ぐ。
「ところで流星雨の」
彼はハリアーの腰に視線を落とした。彼女の鮮やかにくびれた腰の左右には、二本の角が突き出した、あの小さな丸盾が下げられている。
「最後の依頼から半年ぶりくらいかな? 今日は剣を持ってないが、賞金稼ぎから足洗って用心棒に転職かい? マドゥなんか二つも持って」