五.

文字数 9,176文字

「……屍師(ヴェネフィクス・モルテ)になるには、『舟の書』に書かれた術法、“屍解変容(メタモルフォシス)”を行使して、肉体の大半を分解し、存在の神エスとだけ絆を結ぶしかない。だが魔術結社中央会議(セントラル)の『舟の書』は、“屍解変容”の項に致命的な誤記があって、そのまま行使すると、術者の体はその場で蒸発してしまう。パペッタは、それに気付いたんだろう」

 魔術師メヴィウスは、立ち尽くす陶器の女屍師パペッタに視線を注ぐ。

「“屍解変容”を行使できなければ、いずれ体は朽ち、死がやってくる。それを避ける代替手段の一つが“保存屍者(プリザーブド・デッド)”だ」

 腕を組み、メヴィウスは目を伏せた。
 そこはかとない嫌悪感が、胸の内に薄く広がってくる。

「死の間際、肉体にあらかじめ防腐処理をしたうえで、霊魂が肉体から離れないように術法を行使しておく。これも屍霊術の一つだ。方法はいろいろあるけど、パペッタは陶器で体を固めたらしいな」

 彼は小さくため息をつく。

「そうしておけば生体活動が停止しても、当面は生きているかのように地上で活動できる。それでも、生とも死とも縁が切れた訳じゃないし、存在の神とも絆を結べた訳でもない。“保存屍者”も不滅じゃないから、いずれは体が朽ちて、死ぬことになる」
「ああ、それでパペッタは、お前の持ってる本を欲しがったワケだな。ホントの屍師になるために」

 ハリアーが納得顔で、メヴィウスの言葉を引き取った。

「ってことは、パペッタは屍師じゃないから、倒せるんだよな? あたしらでも」
「そうだな。そうなるか」

 メヴィウスが彼女に同意した時、陶器のパペッタが固まった唇の間から低い声を洩らした。

「さすがはアンドレイオン師ね。よくそこまで見抜いたわ」

 女屍師がガラス玉の目をメヴィウスに注ぐ。
 その視線に篭る恨めしさと冷酷さ、それに濃厚な殺意を感じ取り、彼は背筋に怖気が走るのを感じた。無垢の敵意に対峙するのは、実に久しい。

「私のことを本物の屍師だと思わせておけば、貴男のような達人以上の魔術師は、私と関わろうとはしないもの。剣戟しか頭にない冒険者や賞金稼ぎは、私の敵ではないのだから」

 必要以上に冷淡に響く言葉を綴り、パペッタは続ける。

「貴方たちは素晴らしいわ。大好きよ。でも貴方たちは、私が屍師ではなく、ましてや不滅の体ではないことを知ってしまった。それを流布されたら、私は困るの」

 パペッタの黄色い目に、(くら)い炎が宿る。

「だから、貴方たちをこのまま帰すことはできない。死んでもらうわ」
「やってみな! その前に、あたしがお前を木っ端微塵にしてやるよ!」

 叫ぶが早いか、ハリアーが拳を握って跳び出した。あっという間もなく、彼女は陶器の人形を思わせるパペッタの目の前に駆け寄った。
 そしてスパイクが光る右の拳が、自分の額に指をあてるパペッタの胸元を抉ったかに見えた。
 が、ハリアーの鉄拳は、パペッタのつるんとした胸板からわずか小指の先ほどの間を空けて、ぴたりと止まった。

「うっ」

 微かに呻いたハリアーが目を凝らせると、彼女の拳は透き通った円盤に遮られていた。その表面には、虹色にうねうねと渦を巻く奇妙な模様が浮かぶ。
 メヴィウスは感嘆に目を見開く。

「“念波障壁(フォース・バリアー)”! 人体と思念を研究する魔術結社、コンコード学派の物理防御魔術か。ここまで鮮やかな念波障壁は初めて見る。凄いな」

 ついつぶやくメヴィウスに、ハリアーの罵声が飛んできた。

「バカっ! 感心してる場合か!」

 ハリアーの視線が一瞬パペッタから逸れた。その刹那、パペッタの白く滑らかな右手がハリアーの手首を掴んだ。そしてそのままパペッタは、素早く何事か詠唱すると、小さく声を上げた。

「“ドロール”!」

 次の瞬間、ハリアーの全身は毒々しい緑色の閃光に包まれた。ハリアーの整った顔は、拷問でも受けているかのように痛々しく歪み、体は弓なりに仰け反って、がくがくと激しく痙攣している。
 メヴィウスは、はたと気が付いた。

「“激痛拍動(アゴニー・パルス)”か! まずいな……」

 標的の神経に激痛の信号を直接流す、コンコード学派独自の術法。早く信号を中和しないと、いかにハリアーでも身が持たない。
 メヴィウスも片手で素早く印形を切り結ぶ。
 彼の動作に気が付いたのか、パペッタはハリアーを掴む手を離した。
 途端に、ハリアーの肢体はよろめくようにして、床の上に崩れた。彼女の紫紺の瞳は虚ろに宙を泳ぎ、背中は苦しげに上下している。

「こ、こんな痛みくらい」

 立ち上がることさえできないハリアーだが、それでも強がって呻く。
 そんなハリアーを傲然と見下ろして、パペッタは余裕の含み笑いを洩らす。

「私にここまでさせた賞金稼ぎは、貴女が初めてよ。“流星雨のハリアー”さん。さすが、まだまだ油断は禁物ね」

 パペッタが素早く詠唱を重ね、間髪を容れずに叫んだ。

「“マーノ・ソリダリオ”!」

 と、次の瞬間、床に伏したままのハリアーを囲むように、炭火色の魔法陣が浮かび上がった。複雑な幾何学模様で構成された、奇妙な円だ。
 その図形を見た瞬間、激しい衝撃がメヴィウスの脳天を貫いた。

「“絶対存在(アブソリュート・プレゼンス)”!? ま、まずいまずい!!」

 色を失ったメヴィウス。結びかけた印を解き、彼が狼狽の呻きを洩らしたのと同時に、動けないハリアーの真上にぽっかりと黒い穴が開いた。虚空の穴からは、何かぎりぎりと奇怪な音が響いてくる。何かが迫ってきている。
 もう術法は間に合わない。

「ハリアー!!」

 メヴィウスは、床を蹴って跳び出した。開いたままの胸の傷が、ずきんと疼く。だが、そんなことに構っている暇はない。
 彼は横たわったままのハリアーに飛びつくと、彼女に抱き付いたまま、ごろごろと床を転がった。
 メヴィウスが床の魔法陣から転がり出た、その刹那。虚空の穴から降ってきた漆黒の物体が、耳をつんざく大音響と共に、床にぶち当たった。部屋が大地震のようにぐらぐらと揺れ、壁も床も激しく軋む。
 わずかにかおを上げてみれば、ハリアーが倒れていた場所には、真っ黒な物体がめり込んでいた。しゃがんだ子供ほどの大きさだろうか。涙滴型の奇怪な代物だ。
 まだ動けないハリアーの傍らに座り込み、肩で息するメヴィウスが呻く。

「良かった……。存在の神に起因する“純粋存在”の塊なんか、どんな術法でも打ち消せないからな」
「ただ“在る”こと、それは誰にもどうにもできないものね。たとえ、“万有術師(マグス・ウニヴェルサリス)”のアンドレイオン師でも」

 陶器人形のパペッタが、低く笑う。

「存在の神“エス”の力が顕現した“純粋存在”の前では、全ては圧し潰されるしかないもの。ただ、純粋存在の結晶は、長く形を保てないのが欠点ね」

 パペッタの言葉どおり、床に埋もれた漆黒の涙滴は、だんだんと形が崩れてきているようだ。
 そこで、彼女が床に座り込むメヴィウスへと向き直った。そのガラスの視線は、彼の胸元に注がれている。

「あら、アンドレイオン師。貴方、お怪我をされているのね」

 パペッタの口許が、にたりと歪んだように見えた。怯んだメヴィウスが、思わず硬直する。
 久しぶり過ぎる直接の戦いに、彼の体はすぐに反応できない。研究室に籠るばかりの日々が、メヴィウスから冒険者の勘をすっかり奪い去っていた。
 その彼の隙を衝き、パペッタの禍々しい呪文が大気を揺らめかす。

「“血潮の流れは潮汐に等しく、我は呼ばわる。いざ給え、外界(げかい)の泉へ”」

 そしてメヴィウスを指差したパペッタが叫んだ。

「“フォンス・サングィス”!」

 メヴィウスは、胸の傷に奇妙な違和感を覚えた。痛覚はまだ遮断されているが、変にむずむずする。そう思った途端、彼の胸の傷から真紅の鮮血が噴き出した。

「わっ!?」

 彼の体から流れ出した血液は、まるでワインの川のように宙を流れ、虚空に血の泉と溜まってゆく。
 この街に来るために、彼はすでに多量の血液を犠牲にしていた。そこへ、このパペッタの呪文が引き起こした大量出血だ。今のメヴィウスにはひどく堪える。
 パペッタの術法を打ち消す方法は、即座に想像がついたメヴィウスだった。だが、印形を結んだ指は力なくほどけ、思考はまとまらない。視界までもがぐるぐると回り出す。

 ……いよいよ血が足りなくなったのだろう。
 朦朧とする頭で自己分析しつつ、メヴィウスは床に両手を着く。霞む目で傍らを見回しても、まだハリアーに起き上がる気配は全く窺がえない。
 メヴィウスの口の中に、言いようのない嫌な味が広がる。今置かれた状況は、彼が知る限り、かつてない最悪の窮地と言っていい。
 パペッタの哄笑が、不快に響いた。

「さすがのアンドレイオン師も、そこまで血を失っては厳しいでしょうね」

 彼女が余裕に満ち満ちた足取りで、メヴィウスの目の前に歩み寄ってきた。跪いた形のメヴィウスは、霞んだ視野を抱えたまま、ゆっくりと顔を上げた。
 パペッタが、彼の顔を上から覗き込む。

「いい顔色ね、アンドレイオン師。真っ白で、とてもきれいよ」

 ねっとりと笑うパペッタが、メヴィウスの懐から『黒龍版・舟の書』を取り上げた。そして震える指先で白い写本のページをめくった彼女は、手を止めて声を上げた。

「あったわ! “屍解変容(メタモルフォシス)”」
    
 女屍師の歓喜のつぶやきを聞きながら、メヴィウスは大きなため息をつくと、諦めた口調で吐き捨てる。

「ああ、分かった。俺たちの負けだ。さっさと“屍解変容”を行使して、屍師になったらいいだろう」
「何おうっ?」

 途端に、床に倒れ伏したままのハリアーから、反抗的な言葉が飛ぶ。しかしその声にいつもの張りはない。

「そうね。そうさせて頂くわ、アンドレイオン師」

 嬉しさを隠さずに短く答えたパペッタは、メヴィウスから数歩退いた。そして写本を手にした彼女は、そこに書かれた呪文に目を走らせた。

「確かに、魔術結社中央会議(セントラル)の“屍解変容”とは記載が違うわね」

 パペッタは、開いた紙面にしたためられた呪文をゆっくりと読み上げた。

「“我はただここに在らんと欲す。大いなる始原の神エスよ、願わくば、我が祈りを聞き届けよ”」

 詠唱するパペッタに、変化が起こった。
 白い陶器の体が、透明な黄色い光に包まれる。

「“ああ、命の女神ヴィータよ、その抱擁から我が身と我が魂を解き放て”」

 パペッタの体表を覆う陶器の被膜に、微かな音を立てながら無数の亀裂が走る。ぽろぽろと白陶の破片が剥がれ、そのから下痩せこけた灰色の皮膚が覗く。
 やがてパペッタの体から完全に陶器が剥離し、彼女の実体が露わになった。骨の上に乾ききった皮膚をぎちぎちに張り付けた、古びた死体。他に表現のしようはない。
 死体のパペッタが、さらに詠唱を重ねる。

「“ああ、死の女神モリオールよ、そのいと厳しき眼差しを我から”」

 パペッタの詠唱が止まった。
 何か訝るように、手にした写本を肉の削げ落ちた顔へと近付ける。
 メヴィウスは、感情のない口調でパペッタを促す。

「……続きは? まだ呪文は終わっていないはずだ」

 彼の言葉を聞き、パペッタは黄ばんだ歯の間から、呪文の続きを紡ぎだした。

「“いと厳しき眼差しを我から逸らさずに、その手で我が身と、我が魂を、死
の母の元に繋ぎ留めよ”……」

 パペッタの手から、『舟の書』が滑り落ちた。彼女を包んでいた黄色の光は消え失せ、足元から湧き上がる黒々とした靄が、パペッタの体を飲み込んでゆく。

「これは!?」

 女屍師が(むくろ)の顔を鋭くメヴィウスに向け、鬼気迫る口調で問いをぶつけてきた。

「アンドレイオン師! 貴男、私に何をしたの!?」

 メヴィウスは、腹の底に言いようのない喜びが湧くのを覚えた。じわじわと込み上げる、漆黒に練り上げられた、ぬめりつくような歓喜。
 座り込んだままに、うつむき加減にメヴィウスが嗤う。

「呪文は俺が書き換えておいたよ。“生”があんたを見放し、“死”があんたを捉えるようにね。当然、存在の神との絆が完成する前に、さ。きちんとした理論に則って書いたから、さすがのあんたでも、気が付けなかったようだな」

 黒い靄に首まで飲まれたパペッタの顎が、がくんと落ちた。ぽっかりと空いたパペッタの口蓋から、絶望にも似た声が洩れる。

「じゃあ、じゃあ、今の私は!?」
「ああ。もうあんたの“屍解変容”は成就しないし、屍霊術師(ネクロロジスト)としての能力は失われた。今のあんたは死体から抜け出せない、一体の死霊に過ぎない」

 メヴィウスの言葉を裏付けるように、虚空に漂っていた鮮血の川が、彼の胸の傷に向かって逆流し始めた。パペッタの術法が破れたのに違いない。
 胸の傷から体内に戻った血液が、再びメヴィウスの全身に充溢していく。氷のように冷え切った指先にも、温かさの戻るのが自分でも分かる。視界も思考も明瞭さを取り戻し、自然と安堵の息が洩れたメヴィウス。
 ゆっくりと立ち上がった彼は、両足で力強く床を踏みしめ、茫然と立ち尽くすばかりのパペッタを見つめる。

「あとは、その屍体を破壊して、霊体を剥きだしにするだけだ」

 無感情に言い渡し、メヴィウスはおもむろに奇妙な印形を結んだ。
 一度は死んだ魂が、死体に引きこもった状態のパペッタ。彼女のそんな不自然な状況を打ち砕く、それがパペッタのためでもあるだろう。
 メヴィウスは両手を組んだ印形の先に、茫然と立ち尽くす屍体を捉える。

「“灰は灰に、塵は塵に、土は土に”」

 ごく短い詠唱に続けて、メヴィウスは渾身の結句を放った。

「“エクソール・キスムス”!」

 パペッタの体が青白い閃光に包まれた。余りの目映さに、メヴィウスは堅く目をつむる。そんな彼の耳に、膨らませた紙袋が爆ぜるような軽い音が響いた。
 彼がゆっくりと目を開けると、そこにはあの立ち上がった死体、パペッタの姿はなかった。
 床に積もった塵の只中に茫然と佇むのは、一人の女だ。
 足首まで届く長い金髪に、ほっそりとした優美な裸身。顔つきは理知的に整い、くっきりとした眉は強い意志を感じさせる。しかしその身は実体が薄く、うっすらと向こう側まで透けて見える。

「ああ、それがあんたの生前の姿なんだな」

 メヴィウスは立ち上がった。
 ハリアーもようやくよろよろと起き上がり、彼の方へと歩み寄ってくる。

「これがあのパペッタか?」

 疑念と驚きに満ちた、ハリアーの力のない問い。彼女は困惑の視線をメヴィウスと半透明のパペッタへと交互に注ぐ。
 分からない顔を見せる彼女に、メヴィウスは無感情に答える。

 「生きてもいない死んでもいない状態だったパペッタを霊体にしてやった。早い話が幽霊だ」

 ハリアーが何か言おうとしたとき、辺りが一段と暗くなった。どこからか、冷たい空気が流れ込んでくる。重くのしかかるような闇に、息苦しささえ覚える。

「何だ?」

 周囲を見渡して、ハリアーが短く口走った。怪訝な表情を浮かべたまま、彼女が低く身構える。
 だがメヴィウスには、これから何が起こるのか分かっていた。胸の中に、まとわりつくような憂鬱が広がるのを感じながら、彼はため息交じりに洩らす。

「ああ、始まる。来るぞ」

 その言葉も終わらないうちに、周囲に無数の光点が浮かび上がった。
 赤く光る無数の光、よくよく見れば、それは人の目だ。数え切れないほどの人影が、メヴィウスとハリアー、それにパペッタを取り囲んでいる。どの人が見せる顔色も、およそ生者とは程遠い。

「何だ? またパペッタの屍霊術か?」

 焦りの漂うハリアーに答えるより早く、メヴィウスは彼女の手首を掴んだ。

「離れよう、ハリアー」
「お? おい、メヴィウス……?」

 戸惑うハリアーに構うことなく、メヴィウスは彼女を引き摺るようにして、壁際へと逃れる。
 無数の人影の間をすり抜ける二人に、亡者たちは目もくれない。爛々と目を光らせる人影は、メヴィウスたちなど無視して、じりじりとパペッタに詰め寄ってゆく。
 怯え切り、身を縮こまらせて立ちすくむばかりのパペッタ。
 ひんやりとした壁にもたれかかり、メヴィウスは額に手を当てた。
 ハリアーも肩を弾ませながら、同じように壁にもたれている。メヴィウスから手首を取り戻し、女拳闘士が隣から怪訝な視線を向けてくる。

「アイツらは何なんだ?」
「今までパペッタが使役した死霊たちだ」

 胸にわずかに痛みを感じ、メヴィウスは深いため息をつく。

「不当な隷属への復讐に来た。屍霊術師(ネクロロジスト)の末路だ」
「……集団私刑、ってワケか」

 腰に手を当てたハリアーがしんみりとこぼし、紫紺の瞳を万有術士に注ぐ。いつになく暗く、悲しげな彼女の眼差しが、情に訴えている。
 メヴィウスはうつむいた。

 ……確かに、これは死者たちの集団私刑だ。
 ひどい話ではあるが、あのパペッタもそれだけのことをしてきたに違いない。
 自業自得だ。自分にできることなど、何もない。

「あっ? あれは?」

 ハリアーの声に、メヴィウスは顔を上げた。死者たちの只中でうずくまるパペッタの上に、二つの光球が現われた。
 青白く、清廉な光を放つ二つの球体は、迫り来る死者たちを遠ざけようと、パペッタの周りを旋回している。その動きは、まるでパペッタを守ろうとしているかのようだ。
 顔を上げたパペッタの唇が、わずかに動いた。

「『あなた』……?」
「『せんせい』……?」

 メヴィウスとハリアーがパペッタの唇を読み取ったとき、部屋がみしみしと軋んだ音を立て始めた。壁も、床も、小刻みに震えている。天井を見上げると、たった一つの小さな灯りはゆらゆら揺れ、細かな埃が降ってくる。
 彼は気が付いた。

「パペッタの術が破れる! 逃げよう」

 ハリアーを促しつつ、メヴィウスは壁際に走った。
 安楽椅子の上では、まだプリモがだらしなく伸びている。不機嫌に鼻息を一つつくと、彼はプリモを抱き上げた。
 天井からの埃は雨と注ぎかかり、壁も床も激しく鳴動している。

「メヴィウス! 早くこっちへ!」

 ハリアーの声がした方へ目を向けると、彼女がドアを蹴り開けていた。彼女の呼ぶ声に従って、メヴィウスは戸口へ走った。彼の背後で破壊音が響く。
 ハッと振り向くと、天井の梁が崩落している。もうもうと立ち昇る塵と埃、そして入り乱れる死霊たちを一瞥し、メヴィウスはこの部屋から駆け出した。

 メヴィウスとハリアーは、久遠庵から狭苦しい裏路地へと跳び出した。
 同時に小さな魔法屋は、音もなく揺らめくように消え去り、後には四角い地面が残されていた。ぐちゃぐちゃに踏み荒らされた土の上には、骨片や調度品の残骸が散乱している。
 しかし辺りはしんと静まり返り、久遠庵での出来事も、それに久遠庵の存在さえ、まるでなかったことのようだ。
 眠るプリモを抱きかかえたまま、メヴィウスは目を伏せる。

「……終わったな。エスの結界陣も消失したか」
「で、あの女はどうなった?」

 隣で空き地を見つめるハリアーが聞いてきた。
 目を伏せたメヴィウスは、ぽつりぽつりと語る。

「ひとは死ぬと、魂は生まれる前にいた樹の上の世界に帰る。死んだばかりの魂は、その樹への道順が分からない。だから多くの場合、強い絆に結ばれた故人が、今わの際に迎えにくる。樹への道案内のためだ」

 メヴィウスは小さく吐息をつく。

「そういう絆のない亡者は、“死の女神”の聖霊つまり死神が迎えを務める。命の女神と死の女神が定めた輪廻の環の仕組みから外れるのは、本物の屍師だけだ」
「じゃあ、パペッタも……?」
「さあね。死神は見てないから、あの二つの鬼火が迎えの縁者だろう。パペッタを死霊たちの私刑から護り切れたか、無事に樹に還れたかは、俺にも分からない」
 そこでもう一息ついたメヴィウスは、ハリアーに向き直った。

「プリモを頼む」

 一言添えて、メヴィウスは抱きかかえたプリモをハリアーに託す。
 彼女も、メヴィウスに代わってプリモを抱きとめた。

「メヴィウス、お前は?」
「俺は先に塔へ帰る。ハリアーたちも、早く帰って来いよ」

 答えたメヴィウスは、ハリアーの目を正視し、語気を強めて言い含める。

「いいか? 俺が来たことは、プリモには絶対に言うなよ」

 彼はプリモの寝顔に視線を注ぐ。
 本当に、何事もなかったかのような、安穏とした寝顔だ。何だか腹が立つと同時に、深い安堵を覚える。
 すぐに彼は鋭くハリアーに向き直った。

「俺が来たことを知ったら、プリモは変な気を使うからな。もし言ったりしたら、今後は絶対に俺の塔には泊めてやらないぞ。いいな?」
「何でだ? お前が助けに来たって知ったら、プリモ、大喜びすると思うぞ」

 不思議そうに、目を白黒させるハリアー。
 しかしメヴィウスは、大きく目を見開いた。柄にもなく顔が熱くなるのが分かる。唇の震えを押し殺し、メヴィウスはわざと怒鳴った。

「は、恥ずかしいじゃないかっ! こんなことで、この俺が、必死になってここへ来たなんて!」
「つまんない自尊心(プライド)だなー」

 プリモを抱きかかえたまま、ハリアーが鼻で笑った。それでも彼女は肩をすくめてうなずく。

「まあ、お前の好きにするさ。それで、お前はどうやって帰る? 来た時の方法を使うのか? 何やったかは知らないけど、どうせロクでもない呪文なんだろ」

 ハリアーの憎まれ口を聞き、メヴィウスは力を込めてうなずいた。普段なら反感を覚えるところだが、今回ばかりは全面的に同意する。
 彼の脳裏に、パペッタの残した言葉が影のように広がってくる。

 ――本当に効果を発揮したのは、その呪物なのかしら? それとも――

 目を伏せたメヴィウスは、首を左右に振り、自らへの疑念を振り払った。

「アレには重大な疑義がある。二度とごめんだ。地道に飛んで帰る」  
          
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