六.
文字数 4,280文字
プリモは、ハッと顔を起こした。
途端に鼻先が、何かちくちくしたものに触れる。何か弾力のある、赤く長いブラシのようなものだ。
鼻を刺激され、プリモはくしゅん、とくしゃみを飛ばした。
と、即座に聞こえてきたのは、深い安堵の滲む少女の声だ。
「ああ、よかった。プリモ、大丈夫?」
「あ、はい、ハリアーさん?」
生返事のプリモは、半分ぼんやりしたまなこのまま、辺りを見回した。
今、プリモがいるのは、赤いレザーに身を包んだ少女の背中だ。解かれた赤く長い髪が、プリモの顔の前に広がっている。結い上げた髪を解いた拳闘士風の少女、ハリアーだ。
プリモは、その飄々と路地に佇むハリアーに背負われていた。
「あ、ハリアーさん! ご無事だったんですね?」
プリモが安堵と喜びの声を上げたのと同時に、彼女はそっと小道に下ろされた。正面に立ったハリアーは、全身が埃にまみれ、印象的な長い赤毛も無造作に下ろされている。どこか疲れたような、乾いた微笑を湛えつつも、ハリアーが強くうなずく。
「あたしはこの程度じゃ負けないさ。プリモこそ、無事でよかったよ」
ふう、と大きな吐息をついて、ハリアーが路地の突き当りへと視線を移した。
プリモも、女拳闘士の紫紺の瞳が見つめる先を追う。
辺りの様子から察するに、プリモがいるのは久遠庵の前、のはずだ。が、あの倹しい店は、影も形もない。
一体何が起こったのか、プリモは記憶を手繰った。
……ハリアーが二体の悪霊に襲われ、自分は久遠庵の主人パペッタに囚われた。そのパペッタの昔話を聞いたところまでは思い出せたが、そこから先の記憶がない。
小首を傾げつつ、プリモは傍らに立つハリアーに楕円の瞳を向けた。
「あの、ハリアーさん。何があったんですか? お店もなくなって、パペッタさんはどこへ?」
するとハリアーは、曖昧な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「あたしにも分かんなくて。気が付いたら、この有様さ。一体何が起こったんだか」
プリモは、路地から久遠庵の跡地へと踏み入った。
あの不思議な店でのパペッタとの会話が、何だか大昔のことのように現実感が薄い。ほとんど夢見心地のまま視線を巡らせたプリモだったが、何かを探している自分に気が付いた。
「あ、偏向水晶 ……」
探し物を口に出して、プリモは空き地を歩き回る。だが、あの虹色に光る水晶は見当たらない。あの死体たちとハリアーの最初の立ち回りで、偏向水晶は粉々になってしまったのだろう。
ずっしりとした残念な感じが、胸を重く塞ぐ。
……結局、アリオストポリに来た意味はなくなってしまった。
旦那さまへの申し訳なさだけが、後味悪く残った感じだ。
うつむいて目を伏せたプリモは、どんよりと濁った吐息をついた。どれだけ深く息を吐いても、胸の中はちっとも軽くならない。
はあ、と陽の傾きかけた青天を仰いだプリモは、自分の視界の端に白いものを見つけた。
彼女は空き地の奥へと足を進め、地面からその白いものを拾い上げた。
白い表紙の一冊の本。
土と埃を被った表紙には、几帳面な手書きの文字で表題が書き記してある。『黒龍版・舟の書』、と。
プリモの脳裏に閃光が走る。
――旦那さまがいらっしゃったんだ!――
……そういえば、パペッタが言っていた。『彼は必ず来る』と。
実のところ、プリモは半信半疑だったが、本当に旦那さまがここへ来たのだ。この久遠庵がなくなったのも、パペッタの姿が消えたのも、旦那さまが関係しているのに違いない。それなのに、ハリアーは何も言わなかった。きっと旦那さまが口止めしたのだろう。
旦那さまは、意外と照れ屋だから。
プリモは、ふうと深い喜びに溢れた息をついた。
一方で、旦那さまの手を煩わせてしまった後悔も、ちょっぴり混じっている。
熱い胸に写本をぎゅっと抱きしめる彼女の傍らで、ハリアーの声が静かに響く。
「そろそろ帰ろう。残念だけど、これ以上長居をしたら、帰りが遅くなっちゃう」
いつの間にか、ハリアーが横に立っていた。どこか寂しげな表情を湛えた少女拳闘士のハリアー。プリモが気を失っていた間に、一体何が起きたのだろう?しかし、何をどれだけ聞いても、たぶんハリアーは答えない。主人メヴィウスが来たのかどうか、それさえも。
プリモは、メヴィウスの訪れをほのめかす本をギュッと抱いたまま、こくりとうなずく。
「分かりました、ハリアーさん。塔に帰ります」
伏し目がちなプリモの言葉を聞き、無言のハリアーがポンとプリモの肩を叩いた。
そして膝を屈めたハリアーが、地面から玉の付いた長い紐を拾い上げると、手際よく自分の髪を高く結い上げた。
赤いポニーテールをそよ風に揺らし、ハリアーが静かに促す。
「じゃ、行こうか」
アリオストポリを去る前に、プリモとハリアーは、バザールに立ち寄った。
そろそろ夕方に差し掛かったバザールは閑散としている。買い物客もめっきり減り、店じまいに勤しむ露店も多い。
プリモたちは、そんなバザールのど真ん中で足を止めた。目の前では、小さな異人種の中年男が、畳んだテントを馬車に載せているところだ。
そんな忙しそうな男に向かって、ハリアーが無遠慮な声を張り上げる。
「おい、グラム」
振り向いた微小人の商人グラムが、満面の笑顔を浮かべて寄ってくる。
「おっ、ハリアー。それに奥様も。いやお約束どおり、また来て頂けて嬉しいね」
「一応来たけど、何か用でもあったのか?」
ハリアーがぶっきらぼうに聞くと、グラムが大きくうなずいた。彼の黒く熱いまなこは、プリモを見上げている。
「今日は奥様のおかげで、たっぷり稼がせて頂いたんで、お礼をしたくてね」
「いいえ」
プリモは即座に首を横に振った。
「グラムさんには、この街まで馬車に乗せて頂きました。あのお仕事は、そのお礼です。お礼にお礼を頂くのは、正しくありません」
「いやいや、それはそれ、これはこれ、でさ」
プリモは正論をこねてはみたものの、この中年男グラムは笑って取り合わない。傍らの黒い箱をぽんと叩き、彼は胸を張る。
「このグラム、気前のいいことで通ってるんでね。奥様にも、それを貫徹させて欲しいんでさあ」
「今日のところは、グラムの言葉に甘えときなって」
ハリアーも、笑顔でグラムの言葉に乗っかった。
彼女の口添えを受けて、プリモも戸惑いながらもこくりとうなずく。
「分かりました。よろしくお願いします」
「お任せ下さい、奥様」
得意顔のグラムが、小さな両手で黒い箱をおもむろに開いた。
プリモも箱の中を覗き込む。だが箱の中は真っ暗闇で、何も見えない。ただ闇が詰まったばかりの、全く奇妙な箱だ。
「それでは奥様、お手を拝借」
小首を傾げつつ、プリモは言われるまま、グラムに片手を差し出した。すると慎重にその手を取ったグラムが、黒い箱の中へ、彼女の手を差し入れた。
「今、奥様が一番欲しいものを思い浮かべておくんなさい。できるだけはっきりと」
グラムの言葉を聞いて、プリモの脳裏に一番欲しいもののイメージが浮かび上がる。
そう、プリモが欲しいものといえば、たった一つしかない。
久遠庵でのプリモの記憶と、想像が明確に結びついた、まさにその時。箱の中で、彼女の指先に何か硬く冷たいものが触れた。
グラムもそれを気配で感じ取ったのか、静かに促す。
「さ、奥様。それを取っておくんなさい」
言われたままに、プリモは冷たい塊をそっと掴み、その手を箱から引き出した。
そして掌にあった物を目の当たりにして、プリモは激しい驚きに目を見開いた。
「偏向水晶(でぃふれくたー・くぉーつ)!?」
プリモの手の中で、虹色の水晶が七色の光輝を慎ましやかに放っている。
あのパペッタの魔法屋で、プリモが一度は手にした偏向水晶に間違いない。
「これでもう、それは奥様の物でさ」
「どうなってるんだ?」
ハリアーも頓狂な声を上げると、グラムはへっへと笑いながら、黒い箱の蓋を閉じた。
「奥様とハリアーだから話すが、この黒箱は、あっしがさる王族から預かってる物でね。こいつの中にゃあ、あらゆる時間と空間が詰まってる。巧く使えば、自分の望みの物を取り出せる、って代物なんでさ。もっとも、古今東西存在してないものだけは、取り出せないがね」
「じゃあ、お前が売ってたアクセサリーも、全部箱から出したワケか」
感心半分、呆れ半分につぶやくハリアーに、グラムはうなずいて見せる。
「まあね。あっしがあちこちの国や時代から、ちょいと拝借したって寸法さね。内緒だぞ」
「やっぱりお前、とんでもないヤツだな。この大泥棒め」
「人聞きの悪い言い方はやめておくれよ、ハリアー。あっしはただ……」
二人のやりとりを聞きながら、プリモは、ふうと息をついた。胸の奥底から衝き上げた喜びが、じわじわと身を震わせる。その一方で、深い困惑が薄暗く心に広がってくる。
プリモは戸惑いを隠せないまま、グラムに素直に尋ねた。
「あ、あの、グラムさん。この偏向水晶、本当にわたしが頂いてもいいのですか? 金貨五千枚はすると聞いているのですが」
しかしグラムは気のいい軽い笑顔で、かぶりを振る。
「そんなこと、いちいち気にしちゃいけませんや。それは奥様が持っていっておくんなさい。今日の奥様の労賃でさ」
「『ろうちん』って、何ですか?」
プリモが小首を傾げると、すかさずハリアーが口を開いた。
「プリモがグラムのために働いたごほうび、ってこと。これがつまり、『おきゅうりょう』ってヤツさ」
プリモは、給料の何たるかを、創られて初めて理解した。胸に広がる咲くような感謝を込めて、グラムに深々と頭を下げる。
「ああ、本当に、本当にありがとうございますっ! このご恩は、何があっても忘れません……!」
「大げさだねえ、奥様。感謝するのはあっしの方でさ」
ははは、と笑ったグラムは、プリモとハリアーを交互に見上げた。
「さ、あっしは帰りやす。奥様とハリアーもお帰りなら、今朝の所まで、馬車で送りやすよ」
一瞬ハリアーと顔を見合わせたプリモだったが、すぐに笑顔でうなずいた。
「よろしくお願いします、グラムさん」
途端に鼻先が、何かちくちくしたものに触れる。何か弾力のある、赤く長いブラシのようなものだ。
鼻を刺激され、プリモはくしゅん、とくしゃみを飛ばした。
と、即座に聞こえてきたのは、深い安堵の滲む少女の声だ。
「ああ、よかった。プリモ、大丈夫?」
「あ、はい、ハリアーさん?」
生返事のプリモは、半分ぼんやりしたまなこのまま、辺りを見回した。
今、プリモがいるのは、赤いレザーに身を包んだ少女の背中だ。解かれた赤く長い髪が、プリモの顔の前に広がっている。結い上げた髪を解いた拳闘士風の少女、ハリアーだ。
プリモは、その飄々と路地に佇むハリアーに背負われていた。
「あ、ハリアーさん! ご無事だったんですね?」
プリモが安堵と喜びの声を上げたのと同時に、彼女はそっと小道に下ろされた。正面に立ったハリアーは、全身が埃にまみれ、印象的な長い赤毛も無造作に下ろされている。どこか疲れたような、乾いた微笑を湛えつつも、ハリアーが強くうなずく。
「あたしはこの程度じゃ負けないさ。プリモこそ、無事でよかったよ」
ふう、と大きな吐息をついて、ハリアーが路地の突き当りへと視線を移した。
プリモも、女拳闘士の紫紺の瞳が見つめる先を追う。
辺りの様子から察するに、プリモがいるのは久遠庵の前、のはずだ。が、あの倹しい店は、影も形もない。
一体何が起こったのか、プリモは記憶を手繰った。
……ハリアーが二体の悪霊に襲われ、自分は久遠庵の主人パペッタに囚われた。そのパペッタの昔話を聞いたところまでは思い出せたが、そこから先の記憶がない。
小首を傾げつつ、プリモは傍らに立つハリアーに楕円の瞳を向けた。
「あの、ハリアーさん。何があったんですか? お店もなくなって、パペッタさんはどこへ?」
するとハリアーは、曖昧な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「あたしにも分かんなくて。気が付いたら、この有様さ。一体何が起こったんだか」
プリモは、路地から久遠庵の跡地へと踏み入った。
あの不思議な店でのパペッタとの会話が、何だか大昔のことのように現実感が薄い。ほとんど夢見心地のまま視線を巡らせたプリモだったが、何かを探している自分に気が付いた。
「あ、
探し物を口に出して、プリモは空き地を歩き回る。だが、あの虹色に光る水晶は見当たらない。あの死体たちとハリアーの最初の立ち回りで、偏向水晶は粉々になってしまったのだろう。
ずっしりとした残念な感じが、胸を重く塞ぐ。
……結局、アリオストポリに来た意味はなくなってしまった。
旦那さまへの申し訳なさだけが、後味悪く残った感じだ。
うつむいて目を伏せたプリモは、どんよりと濁った吐息をついた。どれだけ深く息を吐いても、胸の中はちっとも軽くならない。
はあ、と陽の傾きかけた青天を仰いだプリモは、自分の視界の端に白いものを見つけた。
彼女は空き地の奥へと足を進め、地面からその白いものを拾い上げた。
白い表紙の一冊の本。
土と埃を被った表紙には、几帳面な手書きの文字で表題が書き記してある。『黒龍版・舟の書』、と。
プリモの脳裏に閃光が走る。
――旦那さまがいらっしゃったんだ!――
……そういえば、パペッタが言っていた。『彼は必ず来る』と。
実のところ、プリモは半信半疑だったが、本当に旦那さまがここへ来たのだ。この久遠庵がなくなったのも、パペッタの姿が消えたのも、旦那さまが関係しているのに違いない。それなのに、ハリアーは何も言わなかった。きっと旦那さまが口止めしたのだろう。
旦那さまは、意外と照れ屋だから。
プリモは、ふうと深い喜びに溢れた息をついた。
一方で、旦那さまの手を煩わせてしまった後悔も、ちょっぴり混じっている。
熱い胸に写本をぎゅっと抱きしめる彼女の傍らで、ハリアーの声が静かに響く。
「そろそろ帰ろう。残念だけど、これ以上長居をしたら、帰りが遅くなっちゃう」
いつの間にか、ハリアーが横に立っていた。どこか寂しげな表情を湛えた少女拳闘士のハリアー。プリモが気を失っていた間に、一体何が起きたのだろう?しかし、何をどれだけ聞いても、たぶんハリアーは答えない。主人メヴィウスが来たのかどうか、それさえも。
プリモは、メヴィウスの訪れをほのめかす本をギュッと抱いたまま、こくりとうなずく。
「分かりました、ハリアーさん。塔に帰ります」
伏し目がちなプリモの言葉を聞き、無言のハリアーがポンとプリモの肩を叩いた。
そして膝を屈めたハリアーが、地面から玉の付いた長い紐を拾い上げると、手際よく自分の髪を高く結い上げた。
赤いポニーテールをそよ風に揺らし、ハリアーが静かに促す。
「じゃ、行こうか」
アリオストポリを去る前に、プリモとハリアーは、バザールに立ち寄った。
そろそろ夕方に差し掛かったバザールは閑散としている。買い物客もめっきり減り、店じまいに勤しむ露店も多い。
プリモたちは、そんなバザールのど真ん中で足を止めた。目の前では、小さな異人種の中年男が、畳んだテントを馬車に載せているところだ。
そんな忙しそうな男に向かって、ハリアーが無遠慮な声を張り上げる。
「おい、グラム」
振り向いた微小人の商人グラムが、満面の笑顔を浮かべて寄ってくる。
「おっ、ハリアー。それに奥様も。いやお約束どおり、また来て頂けて嬉しいね」
「一応来たけど、何か用でもあったのか?」
ハリアーがぶっきらぼうに聞くと、グラムが大きくうなずいた。彼の黒く熱いまなこは、プリモを見上げている。
「今日は奥様のおかげで、たっぷり稼がせて頂いたんで、お礼をしたくてね」
「いいえ」
プリモは即座に首を横に振った。
「グラムさんには、この街まで馬車に乗せて頂きました。あのお仕事は、そのお礼です。お礼にお礼を頂くのは、正しくありません」
「いやいや、それはそれ、これはこれ、でさ」
プリモは正論をこねてはみたものの、この中年男グラムは笑って取り合わない。傍らの黒い箱をぽんと叩き、彼は胸を張る。
「このグラム、気前のいいことで通ってるんでね。奥様にも、それを貫徹させて欲しいんでさあ」
「今日のところは、グラムの言葉に甘えときなって」
ハリアーも、笑顔でグラムの言葉に乗っかった。
彼女の口添えを受けて、プリモも戸惑いながらもこくりとうなずく。
「分かりました。よろしくお願いします」
「お任せ下さい、奥様」
得意顔のグラムが、小さな両手で黒い箱をおもむろに開いた。
プリモも箱の中を覗き込む。だが箱の中は真っ暗闇で、何も見えない。ただ闇が詰まったばかりの、全く奇妙な箱だ。
「それでは奥様、お手を拝借」
小首を傾げつつ、プリモは言われるまま、グラムに片手を差し出した。すると慎重にその手を取ったグラムが、黒い箱の中へ、彼女の手を差し入れた。
「今、奥様が一番欲しいものを思い浮かべておくんなさい。できるだけはっきりと」
グラムの言葉を聞いて、プリモの脳裏に一番欲しいもののイメージが浮かび上がる。
そう、プリモが欲しいものといえば、たった一つしかない。
久遠庵でのプリモの記憶と、想像が明確に結びついた、まさにその時。箱の中で、彼女の指先に何か硬く冷たいものが触れた。
グラムもそれを気配で感じ取ったのか、静かに促す。
「さ、奥様。それを取っておくんなさい」
言われたままに、プリモは冷たい塊をそっと掴み、その手を箱から引き出した。
そして掌にあった物を目の当たりにして、プリモは激しい驚きに目を見開いた。
「偏向水晶(でぃふれくたー・くぉーつ)!?」
プリモの手の中で、虹色の水晶が七色の光輝を慎ましやかに放っている。
あのパペッタの魔法屋で、プリモが一度は手にした偏向水晶に間違いない。
「これでもう、それは奥様の物でさ」
「どうなってるんだ?」
ハリアーも頓狂な声を上げると、グラムはへっへと笑いながら、黒い箱の蓋を閉じた。
「奥様とハリアーだから話すが、この黒箱は、あっしがさる王族から預かってる物でね。こいつの中にゃあ、あらゆる時間と空間が詰まってる。巧く使えば、自分の望みの物を取り出せる、って代物なんでさ。もっとも、古今東西存在してないものだけは、取り出せないがね」
「じゃあ、お前が売ってたアクセサリーも、全部箱から出したワケか」
感心半分、呆れ半分につぶやくハリアーに、グラムはうなずいて見せる。
「まあね。あっしがあちこちの国や時代から、ちょいと拝借したって寸法さね。内緒だぞ」
「やっぱりお前、とんでもないヤツだな。この大泥棒め」
「人聞きの悪い言い方はやめておくれよ、ハリアー。あっしはただ……」
二人のやりとりを聞きながら、プリモは、ふうと息をついた。胸の奥底から衝き上げた喜びが、じわじわと身を震わせる。その一方で、深い困惑が薄暗く心に広がってくる。
プリモは戸惑いを隠せないまま、グラムに素直に尋ねた。
「あ、あの、グラムさん。この偏向水晶、本当にわたしが頂いてもいいのですか? 金貨五千枚はすると聞いているのですが」
しかしグラムは気のいい軽い笑顔で、かぶりを振る。
「そんなこと、いちいち気にしちゃいけませんや。それは奥様が持っていっておくんなさい。今日の奥様の労賃でさ」
「『ろうちん』って、何ですか?」
プリモが小首を傾げると、すかさずハリアーが口を開いた。
「プリモがグラムのために働いたごほうび、ってこと。これがつまり、『おきゅうりょう』ってヤツさ」
プリモは、給料の何たるかを、創られて初めて理解した。胸に広がる咲くような感謝を込めて、グラムに深々と頭を下げる。
「ああ、本当に、本当にありがとうございますっ! このご恩は、何があっても忘れません……!」
「大げさだねえ、奥様。感謝するのはあっしの方でさ」
ははは、と笑ったグラムは、プリモとハリアーを交互に見上げた。
「さ、あっしは帰りやす。奥様とハリアーもお帰りなら、今朝の所まで、馬車で送りやすよ」
一瞬ハリアーと顔を見合わせたプリモだったが、すぐに笑顔でうなずいた。
「よろしくお願いします、グラムさん」